北部九州の縄文~弥生移行期に関する人類学的考察(2)
中橋 孝博,飯塚  勝
Anthropological Science (Japanese Series) Vol.116(2), 131–143, 2008
(平成 20 年 9 月 6 日受付,平成 20 年 10 月 10 日受理)

縄文晩期における九州全体の縄文人人口について、小山論文では表55を掲げ1万人と見積もっている。(弥生時代には10万6,300人に急増)

この論文によれば、その1.5%=150人が渡来しただけでも、その800年後の人口増加と弥生人が多数を占める状態は、人口の妥当なレベルでの緩やかな増加を前提とした場合でも、何らの矛盾なく説明しうることが明らかとなった言ってよい

私が考えているように、種もみをもって、明らかに移住目的で九州北部に到達した人々は、現代韓国人とは遺伝的には完全に異なる少数の人々であるという視点を強力に支持する内容の論文である

中国の淮河~長江までの沿岸部で水田耕作を行っていた遺伝的には現代中国人とは完全に異なる、恐らくは、現代苗族の一部の特定集団に遺伝的に近い少数の(氏族)集団が、故地での混乱を避けて、山東半島から朝鮮半島へ渡ったものの、そこには既に朝鮮人どもが生息しており、同様の激しい衝突を避けて再度海を渡り、九州北部に到達した。

従って、比喩的に言えば、朝鮮半島を経由したのではなく、朝鮮半島を通過した。即ち、朝鮮半島には、一世代以上(=概ね25年以上)定着することはなく、20年以下の短期間で、再度、九州北部へ種もみをもって移住してきた。

幸いにも、移住先の九州北部では、小山論文によれば人口密度は1平方km当たり1人以下であり、多少の軋轢はあったものの、スムースに定住・人口増加した。そして、土着の縄文人と混血していった人類学上の証拠もある(=西北九州型弥生人が典型例)

現時点では、これで間違いないないと思われる。

そうでなければ、
鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土 弥生後期人骨のDNA分析
篠田謙一・神澤秀明・角田恒雄・安達 登 国立歴史民俗博物館研究報告 第 219 集 2020 年 3 月

で示された主成分分析図を合理的に説明できない。

要  約

従来は 200 ~ 300 年に想定した弥生時代早期から前期末までの年代幅を最大 800 年まで拡張して, 改めてこの間の縄文系と渡来系の人々の人口変化について数理解析を行った。その結果,年代幅が長くな るにつれ,渡来系の人々にとってより緩やかな人口増加率でも弥生時代前期末までに縄文系の人々を圧倒 するような人口比の逆転が可能であることが示された。

はじめに

 弥生時代への幕開けの最初の舞台となった北部九州で は,今なお縄文時代末~弥生時代初期の人骨資料が欠落 しており,その移行劇の実態には多くの疑問が残された ままである。先に 筆者らは,当地の弥生時代中期の人骨の形態学的な分析 に集団遺伝学的な数理解析を加えて,たとえ考古学的事 実が示唆するように渡来人数が少数でも,その後の人口 増加率の差に因って比較的短期間に人口比が逆転し,弥 生時代中期の人骨が示すような渡来系の人々が圧倒する 状況が現出し得る可能性を明らかにした(中橋・飯塚, 1998; Iizuka and Nakahashi, 2002)。

資料と方法

先の解析(中橋・飯塚,1998; Iizuka and Nakahashi, 2002) に用いた 200 ~ 400 年から最大 800 年へと拡大して検討 することとする。

まず, 縄文系の遺伝因子を J,渡来系の遺伝因子を Y とし,各 個体は縄文系遺伝子型 JJ,渡来系遺伝子型 YY,混血遺 伝子型 YJ のいずれかの遺伝子型を持つとする。

「縄文系弥生人」と「渡来系弥生 人」になるが,混血遺伝子型 YJ の個体の表現型は,そ の割合 p が「渡来系弥生人」で,1−p が「縄文系弥生人」 になるとする。

また,各集団では交配相手を無作為に選 ぶ任意交配(random mating)が行われるとする。

世代は離散的で,一世代(子孫を残す平均年齢) は 20 年とする

結  果

I.単純増加モデル


最も単純化したモデルとして,縄文系集団と渡来系集 団が別個に集落をつくり,互いの遺伝的な交わりが無い状況を想定する。なお,北部九州の弥生時代の遺跡には 大陸系の遺物だけが出土する遺跡,つまりは渡来人集団 のコロニーのような集落遺跡は検出されておらず,常に 土着系,大陸系の生活遺物が同遺跡中に混在したかたち で見出されている。

表 1 は,従来(中橋・飯塚,1998)の年代幅(200 ~ 300 年)を上述のように最大 800 年まで拡大した場合,弥 生時代中期における「渡来系弥生人」と「縄文系弥生人」 の比率(「渡来系弥生人」が少なくとも全集団の 80%な いし 90%を占める)になるために必要な初期「渡来系弥 生人」の人口比 X(0) を示した結果である(X(0) および後 述の X(t) は%で表記する)。

時代幅を 600 年とすると 5.8%,最大の 800 年とす るとわずか 1.5%で十分だということを示している


2023-03-10

また,表 2 は,この初期「渡来系弥生人」の比率を各々 0.1%,1%,10%とした場合,第 2 集団がどの程度の人口 増加率で増加すれば中期の 80%ないし 90%という比率 に達するかを見たものである。

ここでも,例えば第 1 集 団の人口増加率が 0.3%,初期「渡来系弥生人」の人口比 が 0.1%で,200 年後に 90%に達するためには,第 2 集団 はほぼ 5%の年率で増加する必要があるが(表 2 の No. 17),時代幅が 600 年だと 1.83%(表 2 の No. 18),800 年で は 1.44%となり(表 2 の No. 19),そうした人口比の逆転 現象がかなり緩やかな人口増加率でも起こり得ることを 示している。

II.混血集落モデル
次にもう少し実際の遺跡の状況に近づけて,一つは縄文系集団(第 1 集団)だが,もう一方に渡来系と縄文系 の人々が混合している集団(第 2 集団)を想定する。

A.混血個体を「渡来系弥生人」として計数した場合 (Model A)

この結果に明らかなように,β で示した初期の第 2 集 団に含み得る「縄文系弥生人」の比率は,人口増加率や 初期「渡来系弥生人」の比率,さらには年代幅を大きく 延ばしてもあまり変化は見られず,中期の全集団におけ る「縄文系弥生人」の比率(20%ないし 10%)に規定さ れてそれを上回ることはない。


つま り,ここで設定した条件では,最初に第 2 集団にこれ以 上の「縄文系弥生人」を加えれば,中期までに全集団に おける「渡来系弥生人」の比率 X(t) が 80%ないし 90%に 達することは理論的にあり得ないということを意味す る。


以上の結果はいずれにしろ,渡来人が男性主体であっ たと想定すれば,弥生初期の遺跡状況が示唆するように, 開始期の集落内にかなりの高率で土着の縄文系女性を取 り込んでも,数百年後の弥生中期までに「渡来系弥生人」 主体の地域社会を形成することは不可能ではないことを 示唆している。


B.混血個体の表現型を「渡来系弥生人」と「縄文系弥生 人」に振り分けた場合

B-1.混血集落内の人口増加率が一定とした場合(Model B-1


いずれにしろ,表 4 の結果は,これまでと同様に,開始期からの年数が以前 に想定した 400 年を越えて長くなればなるほど,小さな 人口増加率 R で「渡来系弥生人」が多数を占めるような 人口比の逆転が可能になることを示している。


B-2.混合集落内での人口増加率に差があるとした場合 (Model B-2)

次に,異系統の個体が混在する第 2 集団では,可能性 として,例えば渡来人が持ち込んだ新たな疾病に対する 免疫力の有無や,何らかの社会的な差別などによって縄 文系住民の人口増加率が渡来系住人より低くなっていた ことも考えられなくはない(Kaplan, 1988; 鈴木,1993a, b)。

開始期における第 2 集団の女性の殆どを「縄文 系弥生人」で占めること,つまりは土器の制作者の多数 が土着縄文系女性であっても不自然ではないことを示唆 している。

考  察 1.
弥生開始時期の遡上による分析結果への影響


弥生時代早期前後の北部九州において,縄文人と渡来 人はどの様に絡み合いながら新しい時代を創生していっ たのか。この間の推移を直接的に示す人骨資料は殆ど欠 落したままであり,考察の手がかりになる情報は今なお 限られている。

ここで改めて問題の要点に触れておくと, まず,先の論考(中橋・飯塚,1998)で述べたように, 弥生時代の幕開けとなった水田稲作の開始には渡来人そのものの関与が想定されるが,

その数は土着集団に較べ て少数と考えられること,

そして一方では,弥生時代前 期末~中期にかけての人骨形態を見る限り,縄文人と大 陸人との混血で中間的な特徴を持っている,と言うよう な状況ではなく,殆ど大陸集団そのものと言っても良い 状況を呈しており,

遺伝的な意味でも大きく新来集団に 偏った,言い換えればその形成に果たした縄文人の遺伝 的な寄与はかなり小さかったと考えられること,やや乱 暴ではあるがこの二点の考古,人類両面から寄せられた 論点に集約できよう。

我々はその一つの解答案として,「渡来系集団と土着系 集団の間に人口増加率で大きな差があったと想定すれ ば,弥生中期に至るまでの人口比の逆転現象は説明可能 であること,弥生文化の開花とその発展は,当初より渡 来系集団が牽引車となり,急速に自身の人口を増やして いった可能性が高い」とする分析の結果を示した(中橋・飯塚,1998)。

概ね先の解釈(中橋・飯塚, 1998)を追認する結果を得た。

ただ,これらの論考で一つの問題点になっていたのは, 各地の諸事例を考えれば不可能とは言えないまでも,人 口比の逆転のためには渡来系の人々に相当高い,場合に よってはあまり類例のない人口増加率を想定する必要が あった点である。

しかし,図らずも今回の分析で,弥生 時代開始期の遡上によって弥生時代中期までの経過時間 をより長く想定すれば,かなり緩やかな増加率でもそう した逆転現象が起き得ることが示された

弥生開 始期以降,渡来が五月雨式に継続したわけではないこと は,家根(1993)の指摘のように,朝鮮半島におけるそ の後の無紋土器の変化が北部九州に伝わっていない事実 から推測できる

しかし,少なくとも弥生前期末に見ら れる舶載の無紋土器や青銅器の急増の背後にある程度の まとまった人の流入を指摘する声は多い(片岡,1990, 2006; 金関,1995)。

2.渡来人主体説?

上述のように,弥生初期の北部九州では,大陸系の 遺物だけを出土するような,いわばコロニー的な居住を 示唆する遺跡は検出されておらず,いずれも土着系と渡 来系の遺物,遺構が混在し,土器ではむしろ縄文系のも のが量的に圧倒することが知られている。


こうした事実 は,我が国に最初にめばえた水稲農耕を柱とする弥生社 会が,以前からこの地に生きてきた縄文系住民と新来の 渡来人による,何らかのかたちの共同作業で築き上げら れていったということを示していよう。