更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
科学研究費補助金研究成果報告書
平成22年6月7日現在
研究代表者 溝口 優司(MIZOGUCHI YUJI)
独立行政法人国立科学博物館・人類研究部・部長
研究成果の概要(和文):
旧石器時代から縄文~弥生移行期まで、日本列島住民の身体的特徴 がいかに変化したか、という問題を形態と DNA データに基づいて再検討し、日本人形成過程の 新シナリオを構築しようと試みた。結果、北海道縄文時代人の北東アジア由来の可能性や、縄 文時代人の祖先探索には広くオーストラリアまでも調査すべきこと、また、港川人と縄文時代 人の系譜的連続性見直しの必要性などが指摘された。シナリオ再構築への新たな1歩である。
沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴で発見 された人骨片のうちの1片、右頭頂骨片に対 して、20416±113 年前(BP)という推定年代値 を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト 化石の年代を推定した値としては国内最古 のものである。
(4)弥生時代枠組み変化の日本人起源仮説 への影響の検討
①弥生開始期の年代は 500 年程度遡らせるべ きだ、との見解に従って計算機シミュレーシ ョン的に再分析を行なうと、渡来系の人々は、 これまで以上に緩やかな増加率で土着縄文 人を圧倒し、人口比の逆転現象を起こし得る ことが示された。
②弥生時代の人口増加を発掘住居数を用い て解析する数理的方法を検討した。
③南九州と沖縄の縄文・弥生遺跡出土人骨か ら試料を収集し、DNA 分析を行なった。
④人骨試料を使って縄文早期・中期・後期お よび弥生(および続縄文)時代での食生態を 検討した結果、植物と魚類の組みあわせとい う視点では、弥生時代においても、縄文時代 から食生態に大きな変化は見られないこと が明らかになった。
⑤人骨コラーゲンの炭素・窒素同位体比分析 から、先史沖縄貝塚人の食物は主に魚貝類で、 魚貝の外にクリ、ドングリなども食べていた 本土縄文時代人とは、食生活が異なっていた ことを明らかにした。
以上の結果を基にして新シナリオを構築 しようとしたのだが、特に上記(1)と(3) に見られるように、縄文時代人の祖先に関す る複数の分析において、相容れない結果を得 ることになった。それらを図1に示しておく。
(1)縄文時代人の祖先集団はいつ、どこか ら、どのような経路で日本列島へ入ってきた のか?
(2)縄文時代人祖先集団のアジア大陸内・ 周辺地域での移住・拡散経路は?
(3)弥生時代人祖先集団の源郷はアジア大 陸のどこか?
(4)弥生時代人祖先集団のアジア大陸内で の移住・拡散経路は?
(5)渡来系弥生時代人は日本列島をどのよ うな経路で東進・北上したのか?
(6)弥生時代前後の渡来民からの遺伝的影 響はどの程度だったのか?
(7)環境要因の身体的時代変化への影響は どの程度だったのか?
図1 得られた新知見
この日本列島へのヒト渡来経路図は、2009 年までにな された形質人類学的研究(骨・生体の形態、古典的遺伝 指標、ミトコンドリアDNA、一塩基置換などに基づく 研究)を通覧して代表者(溝口)が現時点で妥当と考え るものであり、本プロジェクト研究班の班員全員の合意 によるものではない。
①アフリカで現代人(ホモ・サピ エンス)にまで進化した集団の一部が、5~6万年前ま でには東南アジアに来て、その地の後期更新世人類とな った。
②③次いで、この東南アジア後期更新世人類の一 部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオー ストラリア先住民などの祖先になった。
④アジア大陸に 進出した後期更新世人類はさらに北アジア(シベリア)、 北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベ リアに向かった集団は、少なくとも 2 万年前までには、 バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして 北方アジア人的特徴を得るに至った。日本列島に上陸し た集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集 団の中には港川人の祖先もいたと考えられる。
⑤さらに、 更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地 適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも 日本列島へ移住したかもしれない。
⑥そして、時代を下 り、シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、 少なくとも 3000 年前までには中国東北部、朝鮮半島、 黄河流域、江南地域などに分布した。
⑦⑧この中国東北 部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一 部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡 来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本 列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先とな った。
以上の推測渡来経路図の上に着色した部分は本プロ ジェクト研究で得られた新知見である。
黄色部分は、北 海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという 仮説、
緑色部分は、縄文時代人の祖先は東南アジア・中 国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地 域の後期更新世人類の中から探さなければならないと いう指摘、
薄紫色部分は、港川人はアジア大陸の南方起 源である可能性が高いが、縄文時代人とは下顎形態に多 数の相違点があり、それらの間の系譜的連続性は見直さ れる必要があるという主張を図化したものである。
なお、以上の成果は、2010 年 2 月 20 日に、 本研究班主催の公開シンポジウムにおいて 発表された
科学研究費補助金研究成果報告書
平成22年6月7日現在
研究代表者 溝口 優司(MIZOGUCHI YUJI)
A.弥生人の渡来ルートは、朝鮮半島でしかあり得ない。
B.にも拘わらず、現代韓国人どもは、遺伝的には日本人よりも中国人の近いことをほぼ全ての集団遺伝学論文のFst計算結果及びPCA図が示している。特に、DNAチップを使用した分析は、既知の(置換)変異しか検出しえないが、反面、データの信頼性は極めて高い。DNAチップを使用した分析でも、韓国人どもと日本人には、主成分分析図で、かすかな重なりすら見られない。(1900年頃以降の混血者の子・孫と思われる者が数名程度散見されるだけで、集団としての重なりは全くない)
C.これが出た後の同じ篠田氏他の国立科学館チームの弥生人DNA分析のPCA図でも、弥生人は、韓国人どもの範囲には全く入らずに、完全にすっぽりと現代日本人集団の中に全個体がプロットされている。
この結果報告書では、2010年時点で、
①弥生人の源郷地を中国東北部~江南と無茶苦茶広くとったうえで
②朝鮮半島を経由して と明言している。
②は間違いないので、Cの集団が、確実に中国東北部~江南にいたことになる。Cの集団は、現在は消滅している可能性が高いが、苗族の一部の特定の集団が有力である。
言語面から見た、苗語はシナ・チベット語族であるので、渡来した弥生人は、遺伝的均質性の高い1000人以下の特定集団で、この研究結果報告にあげられているとおり、人口増加率の高さから優勢となったが、当初の渡来者数が少なかったこと、及び、当時の水田稲作の生産性が極度に低かったことは確実なので、土着の縄文人との接触の中で、言語としては、土着の縄文人が話していた言語を使用することとなった。(ある歴史学者は、稲作の生産性の低さに着目して、「縄文人にいろいろ教わったはずだ」などと勝手な妄想を書いているが、案外、正解かもしれない。弥生人は、「縄文の壁」によって、全く異なる言語を使用するようになったのか?)
Cの分析結果が正しいのであれば、最も合理的解釈はこれしかない。
私が書いた日本人の起源としての中国の少数民族での明治時代の苗族の最後の男女の写真2枚は、どこをどう見ても、現代日本人である。韓国人どもでは全然なく、中国人でもない。
偶然の一致かもしれないが、直感はこの人々だ!
B.にも拘わらず、現代韓国人どもは、遺伝的には日本人よりも中国人の近いことをほぼ全ての集団遺伝学論文のFst計算結果及びPCA図が示している。特に、DNAチップを使用した分析は、既知の(置換)変異しか検出しえないが、反面、データの信頼性は極めて高い。DNAチップを使用した分析でも、韓国人どもと日本人には、主成分分析図で、かすかな重なりすら見られない。(1900年頃以降の混血者の子・孫と思われる者が数名程度散見されるだけで、集団としての重なりは全くない)
C.これが出た後の同じ篠田氏他の国立科学館チームの弥生人DNA分析のPCA図でも、弥生人は、韓国人どもの範囲には全く入らずに、完全にすっぽりと現代日本人集団の中に全個体がプロットされている。
この結果報告書では、2010年時点で、
①弥生人の源郷地を中国東北部~江南と無茶苦茶広くとったうえで
②朝鮮半島を経由して と明言している。
②は間違いないので、Cの集団が、確実に中国東北部~江南にいたことになる。Cの集団は、現在は消滅している可能性が高いが、苗族の一部の特定の集団が有力である。
言語面から見た、苗語はシナ・チベット語族であるので、渡来した弥生人は、遺伝的均質性の高い1000人以下の特定集団で、この研究結果報告にあげられているとおり、人口増加率の高さから優勢となったが、当初の渡来者数が少なかったこと、及び、当時の水田稲作の生産性が極度に低かったことは確実なので、土着の縄文人との接触の中で、言語としては、土着の縄文人が話していた言語を使用することとなった。(ある歴史学者は、稲作の生産性の低さに着目して、「縄文人にいろいろ教わったはずだ」などと勝手な妄想を書いているが、案外、正解かもしれない。弥生人は、「縄文の壁」によって、全く異なる言語を使用するようになったのか?)
Cの分析結果が正しいのであれば、最も合理的解釈はこれしかない。
私が書いた日本人の起源としての中国の少数民族での明治時代の苗族の最後の男女の写真2枚は、どこをどう見ても、現代日本人である。韓国人どもでは全然なく、中国人でもない。
偶然の一致かもしれないが、直感はこの人々だ!
独立行政法人国立科学博物館・人類研究部・部長
研究成果の概要(和文):
旧石器時代から縄文~弥生移行期まで、日本列島住民の身体的特徴 がいかに変化したか、という問題を形態と DNA データに基づいて再検討し、日本人形成過程の 新シナリオを構築しようと試みた。結果、北海道縄文時代人の北東アジア由来の可能性や、縄 文時代人の祖先探索には広くオーストラリアまでも調査すべきこと、また、港川人と縄文時代 人の系譜的連続性見直しの必要性などが指摘された。シナリオ再構築への新たな1歩である。
沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴で発見 された人骨片のうちの1片、右頭頂骨片に対 して、20416±113 年前(BP)という推定年代値 を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト 化石の年代を推定した値としては国内最古 のものである。
(4)弥生時代枠組み変化の日本人起源仮説 への影響の検討
①弥生開始期の年代は 500 年程度遡らせるべ きだ、との見解に従って計算機シミュレーシ ョン的に再分析を行なうと、渡来系の人々は、 これまで以上に緩やかな増加率で土着縄文 人を圧倒し、人口比の逆転現象を起こし得る ことが示された。
②弥生時代の人口増加を発掘住居数を用い て解析する数理的方法を検討した。
③南九州と沖縄の縄文・弥生遺跡出土人骨か ら試料を収集し、DNA 分析を行なった。
④人骨試料を使って縄文早期・中期・後期お よび弥生(および続縄文)時代での食生態を 検討した結果、植物と魚類の組みあわせとい う視点では、弥生時代においても、縄文時代 から食生態に大きな変化は見られないこと が明らかになった。
⑤人骨コラーゲンの炭素・窒素同位体比分析 から、先史沖縄貝塚人の食物は主に魚貝類で、 魚貝の外にクリ、ドングリなども食べていた 本土縄文時代人とは、食生活が異なっていた ことを明らかにした。
以上の結果を基にして新シナリオを構築 しようとしたのだが、特に上記(1)と(3) に見られるように、縄文時代人の祖先に関す る複数の分析において、相容れない結果を得 ることになった。それらを図1に示しておく。
(1)縄文時代人の祖先集団はいつ、どこか ら、どのような経路で日本列島へ入ってきた のか?
(2)縄文時代人祖先集団のアジア大陸内・ 周辺地域での移住・拡散経路は?
(3)弥生時代人祖先集団の源郷はアジア大 陸のどこか?
(4)弥生時代人祖先集団のアジア大陸内で の移住・拡散経路は?
(5)渡来系弥生時代人は日本列島をどのよ うな経路で東進・北上したのか?
(6)弥生時代前後の渡来民からの遺伝的影 響はどの程度だったのか?
(7)環境要因の身体的時代変化への影響は どの程度だったのか?
図1 得られた新知見
この日本列島へのヒト渡来経路図は、2009 年までにな された形質人類学的研究(骨・生体の形態、古典的遺伝 指標、ミトコンドリアDNA、一塩基置換などに基づく 研究)を通覧して代表者(溝口)が現時点で妥当と考え るものであり、本プロジェクト研究班の班員全員の合意 によるものではない。
①アフリカで現代人(ホモ・サピ エンス)にまで進化した集団の一部が、5~6万年前ま でには東南アジアに来て、その地の後期更新世人類とな った。
②③次いで、この東南アジア後期更新世人類の一 部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオー ストラリア先住民などの祖先になった。
④アジア大陸に 進出した後期更新世人類はさらに北アジア(シベリア)、 北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベ リアに向かった集団は、少なくとも 2 万年前までには、 バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして 北方アジア人的特徴を得るに至った。日本列島に上陸し た集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集 団の中には港川人の祖先もいたと考えられる。
⑤さらに、 更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地 適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも 日本列島へ移住したかもしれない。
⑥そして、時代を下 り、シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、 少なくとも 3000 年前までには中国東北部、朝鮮半島、 黄河流域、江南地域などに分布した。
⑦⑧この中国東北 部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一 部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡 来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本 列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先とな った。
以上の推測渡来経路図の上に着色した部分は本プロ ジェクト研究で得られた新知見である。
黄色部分は、北 海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという 仮説、
緑色部分は、縄文時代人の祖先は東南アジア・中 国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地 域の後期更新世人類の中から探さなければならないと いう指摘、
薄紫色部分は、港川人はアジア大陸の南方起 源である可能性が高いが、縄文時代人とは下顎形態に多 数の相違点があり、それらの間の系譜的連続性は見直さ れる必要があるという主張を図化したものである。
なお、以上の成果は、2010 年 2 月 20 日に、 本研究班主催の公開シンポジウムにおいて 発表された
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