2021年10月

Understanding the Y chromosomevariation by haplogroup andhaplotype analyses in a Koreanpopulation

Myung Jin Park

December 2012

ハマーの論文ではOー47Z変異=O2b1は、日本人以外には1%以下の頻度であり、ほぼ日本人男性固有。これに対して、この論文では9.54%もキチガイどもで検出されたことになる。あまりにも差が大きい。ハマーの論文のサンプルは少なく、この論文では計1000名以上であるが、サンプル差でこれほどの差が出ることはあり得ない。この論文が引用しているHigh frequencies ofY-chromosome haplogroup O2b-SRY465 lineages in Korea: a genetic perspectiveon the peopling of Korea.
でもO2b1を8.89%としている。恐らくは、ハマーとの分析能力の差=間違いである。ハマーの場合には直接サンプルを集めている。Y染色体の非組み換え領域の分析は、組み換えのある常染色体と異なり難しいことは明らかである。
下に掲げたのは、この論文ではなく、High frequencies ofY-chromosome haplogroup O2b-SRY465 lineages in Korea: a genetic perspectiveon the peopling of Korea.からである

2021-10-30 (6)

ハプログループOに焦点を当てた論文であり、よくできた図であり、もし間違えでなければ、参考にはなる


I. Introduction

non-recombining portion of the Y chromosome= (NRY)

Two classes of markers on the NRY, single nucleotide polymorphism (SNP) and short tandem repeat (STR), are widely used. 

Due to their low mutation rate, Y chromosome SNPs are useful genetic markers for reconstructing male lineages through hierarchically arranged allelic sets known as haplogroups, whereas the high mutation rates of Y-chromosomal STRs make them valuable for differentiating between unrelated males and inferring affinities among related populations.


There are several regional Y-STR haplotype databases currently in use globally, such as the Y-Chromosome Haplotype Reference Database (YHRD)16-18.
 
In particular, the phylogeny of haplogroup O-M175 has recently been revised to include the phylogenetic positions of redefined markers, L127, KL1, KL2, P164 and PK4

The haplogroup O-M175 is one of the major clades in the Korean population and the haplogroup O3a-M324 accounts for 43.9% of Korean males31, 32

31. Kim SH, Han MS, Kim W, Kim W.
Y chromosome homogeneity in the Korean population. Int J Legal Med 2010;124:653-7.

32. Kim SH, Kim KC, Shin DJ, Jin HJ, Kwak KD, Han MS, et al.
High frequencies ofY-chromosome haplogroup O2b-SRY465 lineages in Korea: a genetic perspectiveon the peopling of Korea.
Investig Genet 2011;2:10. 


II. MATERIAL AND METHODS

DNA samples from 300 unrelated Korean males were obtained from the National Biobank of Korea for validation of the developed multiplex PCR systems

【サンプルを新たに集めたわけではない。300人分について韓国バイオバンク利用】

I analyzed DNA samples from 1006 unrelated Korean males, which include 706 individuals who have been typed for 19 or 22 Y-STRs33, 34.

【残りの706名については既発表の33、34の論文を利用としている。肝心のサンプルについては詳しくは書いていない。】

III. RESULTS  
2. Y chromosome haplogrouping of Koreans

2021-10-30


DNA samples from 1006 Korean males were analyzed using the multiplex allele-specific PCR assays.

A set of 16 Y-SNPs (M7, M9, M95, M117, M119, M134, M174, M175, M122, M231, P31, P201, JST002611, RPS4Y711, SRY465 and 47z) was initially analyzed in all samples using multiplex AS-I to determine the haplogroups frequent in East Asians.

A total of 21 different haplogroups were identified (when M117 was used alone to designating haplogroup O3a2c1a);

haplogroup O2b*-SRY465 was most frequently observed (24.2%), followed by haplogroups C3-M217 (xC3c, C3d, C3e) (13.4%) and O3a2c1a-M117 (12.3%) (Figure 18). The haplogroup diversity was 0.8830, and the discriminatory capacity was 2.1%. 

By typing of the newly defined or relocated SNPs KL2, JST002611, P164 and PK4 in Korean haplogroup O-M175 samples, their phylogenetic positions were confirmed.


Meanwhile, O2b-SRY465 and its derived sublineage O2b1-47z were found frequent (37.7%) in the Korean population, but they were nearly absent in the Han Chinese population.
The subhaplogroups were concentrated in Korean and Japanese populations32 and the results of this current study are consistent with those findings

32. Kim SH, Kim KC, Shin DJ, Jin HJ, Kwak KD, Han MS, et al. High frequencies of Y-chromosome haplogroup O2b-SRY465 lineages in Korea: a genetic perspective on the peopling of Korea. Investig Genet 2011;2:10. 


37. Xue Y, Zerjal T, Bao W, Zhu S, Shu Q, Xu J, et al. Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times. Genetics 2006;172:2431-9.

38. Zhong H, Shi H, Qi XB, Xiao CJ, Jin L, Ma RZ, et al. Global distribution of Y-chromosome haplogroup C reveals the prehistoric migration routes of African exodus and early settlement in East Asia. J Hum Genet 2010;55:428-35

今日から使える微分方程式
飽本一裕(執筆時には帝京大学助教授)

暇な時、R言語でグラフ描いてみよう



L1



L2


グラフは次のとおり。人口最大値100万人、初期値10万人と2000年、人口増加率2%
L3


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日本列島への稲作伝来の2段階・2系統説の提起
河 野 通 明 KONO Michiaki 神奈川大学 名誉教授 

内容を読みながら専門の研究者ではないと強く感じたので、調べるとやはり専門は経済学、それも神奈川大学だからして恐らくはマルクス経済学。先行研究の紹介が印象的で私も内容を知っている著作がいくつもある


はじめに

本稿は、考古学界がこれまで永らく寄り掛かってき た「日本列島への稲作伝来は朝鮮半島から」とする、 いわば「稲作伝来の朝鮮半島単系説」に対して、朝鮮 半島からの稲作民来住は第1波であり、それに後れて 中国江南地方から第2波の稲作民来住があって、この 人たちが田植え法を持ち込んで日本の稲作の基本型を つくった、つまり日本列島への稲作民の来住は第1波 が朝鮮半島から、第2波は中国江南地方からと2度 あったという「稲作伝来の2段階・2系統説」を照葉 樹林文化論関連の成果や日本の民俗・民具調査の成果 も援用しながら論証しようとするものである。

先住の採集・狩猟生活の縄文人がアイヌ 語の基となる縄文語を話していた日本列島に、朝鮮半 島から古代朝鮮語を話す異民族の稲作民が北九州に来 住し、縄文人を押しのけておもに西日本の平野部に住 みついて稲作生活を始めた。

さらにその後、中国長江 下流域の呉越地方から江南語(越語)を話す稲作民が 南九州に来住し、民族大移動を決行して奈良盆地に攻 め入り、朝鮮系稲作民を制圧してヤマト政権の基を築 いた、と私は見ているのだが、

つまり弥生時代とは、 先住の縄文語を話す縄文人と、北九州から入ってきた 古代朝鮮語を話す朝鮮系稲作民、さらにその後に南九 州から入ってきた江南語を話す江南系稲作民の三つの 民族集団、あるいは縄文人を東と西で分けるなら四つの民族集団が各地で拮抗しながら棲み分ける「日本列 島が多民族社会になった時代」だと捉え直す必要があ る。

弥生時代は筑紫や出雲・北陸・尾張の人は古代朝鮮 語、日向や山陽道・河内・大和の人は江南語を話し、 各地の山間部や海辺の海部の人、そして中部・関東・ 東北の人は縄文語を話しているという多民族・多言語 社会だったが、このうち大和・河内を制圧した江南人 が政権を握り、やがて律令国家を築いて全国を支配し たため、彼らの話す江南語が公用語となり日本語に進 化した。そのため長い時間をかけて日本語が地域的に も階層的にも滲透し、筑紫・出雲・北陸・尾張の人も 関東・東北の人もやがて母語を話せなくなった。また 生活様式・生活習慣も地域の個性が徐々に薄まり共通 要素が増えていったようだ。

AMS 年代法には態度保留
国立歴史民俗博物館を中心に進められてきた AMS 炭素 14 年代謝定法について一言触れておきたい。 藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』(2015)によれば、こ れまで日本の水田稲作は紀元前5世紀ごろに始まった と考えられていたのが 500 年もさかのぼって紀元前 10 世紀になったという。

日本の稲作の起源について は、これまでは中国の戦国時代における戦乱が諸民族 の移動を引き起こし、それに押し出されるように朝鮮 半島の稲作民が九州北部に渡ってきて水田稲作を始め たと東アジア史と連動する形で説明され納得してきた し、

時代が降った4世紀末から7世紀の3波の朝鮮系 渡来人来住の波については、朝鮮半島内の戦乱の激化、 とりわけ百済が国家存亡の危機に直面したり、百済・ 高句麗が滅亡する時期と見事に重なっていて、これが 学界の共通認識となっている。

ところが AMS 年代法 の新年代観に従えば、前5世紀以降の東アジアの激動 期に日本列島に逃れてくる人の波が何もなかったこと になり、これは到底あり得ないことできわめて不自然 なので当面は様子を見ることにし、本稿ではこれまで の年代観にもとづいて論を進めている。


Ⅰ.先行研究の概観

2021-10-28


樋口隆康『日本人はどこから来たか』(1971)

樋口氏は日本の稲作がBルートで江南地方から伝 わったという安藤広太郎(1951)説をを支持し、『魏 志倭人伝』は倭人の風俗や物産が東南アジアの儋耳、 朱崖(海南島)に同じだとか倭人は自ら呉の太伯の後 裔であると信じているとか、

考古学から弥生式時代の磨製石器 や高床式倉庫は江南系であることなどから、稲作農耕 と磨製石器は江南からBルートで九州に入り、金属器 は華北系や遼寧系が朝鮮において金属器文化をつく り、朝鮮半島からAルートで日本に入ってきた。つま り弥生式農耕文化は、一民族の大移動によって確立さ れたもの(単系)ではなく、各方面から入ってきた(2 系統)諸要素が日本において総合体として形成された ものが弥生式文化であった、と結んでいる。

この稲作農耕と磨製石器は江南からBルートで、金 属器は朝鮮半島からAルートで日本に入ってきた、と する樋口説は、50 年前に提起された「弥生文化伝来 の2段階・2系統説」ともいえよう。

照葉樹林農耕論

稲作の起源と日本への伝播については 1960~80 年 代にかけて展開された「照葉樹林文化論」は避けて通 れない。

原農耕圏で は稲の栽培が焼畑的状況に始まり、その種類は陸稲に 近かったと述べ、この稲作が丘陵と山間を降りて、単 作の普遍化に伴い大規模な平坦地稲作が展開した、と した(池橋 2005)。こうして雲南高原で生まれた稲作 が東にくだって長江流域の江南地方で展開し、やがて 日本に伝わるという西から東に稲作文化が伝わるイ メージが形成された。

【下記は中国山間部の少数民族の様子】
餅・ちまき・赤米・納 豆・なれずし・茶・下駄・草鞋・高床式住居・『魏志 倭人伝』の貫頭衣が今も着られていることに驚きと日 本文化のふるさとに出逢った

佐原眞『大系日本の歴史① 日本人の誕生』(1987・1992)

佐原氏は「佐賀県唐津市菜畑、福岡市板付下層で発 見された本格的な水田あと、そして福岡県糸島郡二丈 町曲り田で調査された村のあとによって代表される 「菜畑・曲り田段階」、すなわち日本最初の農耕文化の 状況を学習すると、これが朝鮮半島南部からもたらさ れたものであることは、いまや 100%確実といえる」 としAルートを稲作最初の伝来とし、

「なお、右にか かげた主な伝播のほか、稲作文化は何回も各方向から 伝わったにちがいない。たとえば、あとでとりあげる 高床倉庫の存在は、長江流域からの伝播もあったこと を示している」とA・Bルートの朝鮮半島・江南の2 段階・2系統説を採っている

佐々木高明『日本文化の多重構造 』(1997)
「日本文化の多重構造論」が提起された意味は大 きい。 日本列島への稲作伝来が単系統は2系統説かとい えば、雲南地方からの伝来を重視されているので2系 統説といえよう。

藤原宏志『稲作の起源を探る』(1998)

① 水田稲作の伝来当初は直播で、移植がはじまるの は後代とする見方がとりわけ農学分野では大勢を占め ているが、水田稲作では、むしろ直播のほうがより高 度な技術であり、稲作初期は移植(田植え)であった と考えるべきではないか。
② 木製農具の樹種をみると、弥生時代中期まではカ シ・クスノキなど一次林樹木が多く、弥生時代後期か ら古墳時代にかけてはコナラ・クヌギなど二次林樹木 が増える。水田開発がすすむ中で、平野の一次林が破 壊されて二次林化する様子の反映であろう。
③ 弥生時代以前のイネ収穫法は石包丁や木包丁によ る穂刈りであったが、穂刈りの場合、葉の大部分は水 田に残されることになり、現在のような株刈りとなれ ば、葉の大部分が水田外へ持ち出されることになって、 水田に残されるイネのプラント・オパール量に大きな 差が生じる。弥生時代以降、連続して稲作が行われた 水田でイネのプラント・オパール量変遷をみると、古 墳時代と奈良・平安時代のあいだで変化があらわれ、 この時期に穂刈りから株刈り(根刈り)に転換したと みていい。

若林弘子『弥生文化の源涜考』(1998)
中国大陸には「穴 居」(ジョウキョ)と呼ぶ土間式住居と「干欄」と呼 ぶ高床式住居の二つの住居型式があったとする。

穴居=黄河流域の土間式住居:竪穴式あるいは平地 式の住居で、乾燥地なので地面に地炉を掘って煮炊き をし、土足で生活し、椅子式の食卓を使って食事し「牀」 つまりベッドを用いて就寝する。畑作民の漢族の住居。

干欄=長江流域の高床式住居:稲作民の高床式住居 で河姆渡遺跡でも確認されている。稲は湿地で栽培し たので湿地帯に住居を構えることになり、浸水との戦 いを免れず、炊事の火を水から守るために生活面を地 面から離して高床にして「床面に切った炉」(いろり) で煮炊きをした。屋内では跣足で生活し床の上で就寝 する、となる。

寺沢薫『王権誕生』(2000、2008)
稲作 伝来については、
① 今まで考えられてきた水田稲作の日本列島への伝来ルートを整理すると、Ⅰ 華北か ら渤海湾の北を回り、朝鮮半島を南下して伝来したと する「北回りルート」(本稿では扱わず)。Ⅱ 華中か ら朝鮮半島を経由して伝来したとする「半島ルート」 (本稿のAルート、これはさらにa、b、cに細分)。 Ⅲ 長江下流域から東海を越えての「直接伝来ルート」 (本稿のBルート)。Ⅳ 華南地方から南島経由で伝来 したとする「海上の道ルート」(本稿のCルート)の 4ルートとなる。

③ 縄文晩期後葉、玄界灘沿岸地域に最初に伝来し た水田稲作が、おもにⅡのルートで朝鮮半島南部から 渡来した人々によってもたらされたことは間違いな い。こと最初の水稲に関するかぎり、他のルートは可 能性が薄い

佐藤洋一郎『稲の日本史』(2002)
DNA 鑑定にもとづいて明確に 論じていることで重要な論考である。

DNA データからの稲作伝来2系統説の証明

そこには TA が何回も何回もつながったようなランダムな配列 があり、SSR の型(つまり繰り返し数の違い)を 250 品種の在来品種について調べると a から h までの八つ の変形版が知られている。図1はその八つの遺伝子分 布図を東アジアについて見たもので中国には8タイプ のすべてが分布していて、SSR の性質から考えるとお そらくはここが水稲の故郷なのであろう。朝鮮半島に はaタイプが2/ 3を占めるが b タイプはない。

他方 日本の品種のほとんどは a または b に限られている。それはなぜか。そのもっとも合理的な説明は水稲が日 本に来るとき a と b の2タイプだけが来たというもの である。また b タイプが朝鮮半島にだけなかった理由 は、おそらくそれが中国で生まれ、朝鮮半島を経由せ ずに直接日本列島に来たからである。

日本の水稲の渡来経路については従来、朝鮮半島か ら来たという説と大陸から直接来たという説があり対 立していた。朝鮮半島説を積極的に唱えてきたのはお もに考古学者たちで、その根拠は農具や稲作に伴う儀 礼などが朝鮮半島と日本、とくに九州でよく似ている ことにあった。

一方後者の説をとったのは、考古学の 分野では樋口隆康氏(橿原考古学研究所)らのグルー プと、農学者の故安藤広太郎氏らであった。今回の SSR のデータは、2つの説はどちらも正しかったとい うことを示している、と稲作伝来2系統説のがイネの 遺伝子データから証明できたとする。これは大きな成 果で日本の稲作が朝鮮半島からと江南地方からの2系 統で伝わったことは、遺伝子レベルでの確認で確定し たといえよう

熱帯ジャポニカ縄文焼畑論

佐藤氏は青森県八戸市風 張遺跡から出土した炭化米が 2800 年前と鑑定され縄 文時代後期から晩期にあたること、にもかかわらず縄 文水田は発見されていないことから水田を伴わない米 の栽培法として焼畑を想定して雲南地方の焼畑を調査 し、焼畑農耕では意外と農具を使わないことから農具 の出土がないことで農耕がないとはいえないこと、東 南アジアの焼畑は急峻な斜面で行っているが、当時の 日本は人口密度が低いので、平坦地ではなかったか、 その品種は熱帯ジャポニカではなかったか、そして伝 来ルートは柳田国男が「海上の道」で示した台湾→南 西諸島→南九州ルートではなかったか、とする。

宮本一夫『農耕の起源を探る イネの来た道』(2009)

東北アジアの農耕化4段階説
第1段階は、アワ・キビ農耕が遼西・遼東など中国東 北部から朝鮮半島西北部を介して、中南部から東 部海岸地域や南海岸地域に広がるとともに、中国 東北部からアワ・キビ農耕が沿海州南部からその 海岸平野に広がる段階で、紀元前 4000 年紀後半に 当たる

第2段階は、山東半島から遼東半島を経由して朝鮮半 島中南部にイネが広がる段階で紀元前 3000 年紀後 半に当たる。

第3段階は、山東半島から遼東半島を経て朝鮮半島に 水田や畠さらにそれに伴う農耕具や加工石器、潅 漑農耕が広がり、朝鮮半島でアワ・キビさらにイ ネが栽培され、無文土器文化が生まれていく段階 で、紀元前 2000 年紀半ばである。

第4段階は、これらが北部九州に伝わって最初の段階 から水田などの潅漑農耕を持って稲作が始まる、 とするもので、日本への稲作伝来はAルートの朝鮮半 島経由単系説となる。

池橋宏『稲作の起源 イネ学から考古学への挑戦』 (2005)

【特に意味なし】

松木武彦『列島創世記』(2007)

約 2800 ~ 2700 年前のこととされる、朝鮮半島南部から の水稲農耕の伝来だ。これをもって弥生時代の始まり とする研究者も少なくない」としていて、稲作伝来朝 鮮半島単系説である。

池橋宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る』(2008)
沿海国家で水上戦にも長けた呉越の稲作民の動向を文 献史料から丹念に追って呉越から山東半島を経て朝鮮 半島に渡り、南下して北部九州に渡ってきたとしてい て、Aルート経由の朝鮮半島からの単系説である。

白石太一郎「倭国の形成と展開」(2006)

白石氏は「現在確認されている日本列島最古の水田 は、佐賀県唐津市菜畑遺跡のものである。それは水路 や井関を伴う本格的なものであり、そこには木製の農耕具や脱穀具、それらを製作するのに欠かせない新し い大陸系の磨製石器や穂摘具である石包丁などが出 揃っている。それはかつて論じられたように「原始農 耕」などというものではない。すでに無文土器文化段 階の朝鮮半島南部で水田稲作のシステムとして完成さ れていたものが、システムとして日本列島にもたらさ れたものにほかならない。この新しい水田稲作は、北 部九州から西日本各地、さらに東日本各地に伝播し、 やがて新しい弥生文化を日本列島に成立させる」とし ていて、Aルートによる稲作伝来朝鮮半島単系説であ る

安田喜憲『稲作漁撈文明』(2009)
安田『稲作漁撈文明-長江文明から弥生文化へ-』 は日本列島への稲作の伝播の証拠はプラント・オパー ルの分析や DNA 解析によって新たな段階へと発展し たとして、先に見た佐藤洋一郎『稲の日本史』(2002) にもとづいて①縄文後期の 4000 年前に台湾・沖縄を 経て南九州に到達する「海上の道」ルートで熱帯ジャ ポニカが伝来、その後②縄文晩期の 3000 年前に山東 半島から朝鮮半島経由のAルートで温帯ジャポニカの SSR 型 a 型が伝来、さらに③Bルートで江南地方から 直接九州に温帯ジャポニカの SSR 型b型が伝来した、 とした。つまりA・B・C3ルートでの稲作伝来の3 段階・3系統説となるが、熱帯ジャポニカについては 本格的な稲作とは結びつかないというのが大方の一致 のようなので、Cルートを外せば2段階・2系統説と なる

石川日出志『農耕社会の成立』(2010)

本稿のAルー トの朝鮮半島経由単系説である。

藤尾慎一郎『〈新〉弥生時代』(2011)

藤尾『〈新〉弥生時代 五〇〇年早かった水田稲作』 (2011)は、AMS 年代法を解説しながらそれにもとづ いて新たな弥生時代像を描き出したものだが、「図 28  水田稲作の拡散ルートと開始年代」では前 5000 年に 中国江南地方河姆渡遺跡を出た稲作が北上して前 11 ~ 10 世紀に山東半島へ、そこから朝鮮半島に渡って 南下し、前 10 ~9世紀に朝鮮半島南西部から北部九 州に伝わり、その後列島各地に拡散していく様子が示 されていて、稲作伝来朝鮮半島単系説である。


設楽博己「縄文時代から弥生時代へ」(2013)
り山 東半島・朝鮮半島で華北の畠作農業と融合した畠作化 した稲作がAルートで北部九州に伝えられたことにな る

先行研究概観のまとめ

稲作民来住 を朝鮮半島からと中国江南地方からの2系統と見る説 は樋口隆康(1971)、佐原眞(1987)、寺沢薫(2000) と繰り返し主張されており、若林弘子(1998)の玄 関で履物を脱いで屋内では跣足の畳生活という日本の 低床式住居は河姆渡遺跡以来の長江流域の高床式住居 の系譜を引く後裔であることが立証されたことや、

佐 藤洋一郎(2002)の日本の稲の遺伝子のaタイプは 朝鮮半島から、bタイプは直接中国から来たという指 摘で、現時点では稲作伝来の朝鮮半島・中国江南地方からの 2 系統説はほぼ確定したと言い切れる状況だと 思うのだが、なお考古学の主流学説は稲作伝来朝鮮半 島単系説である。それはなぜなのか。

朝鮮半島で田植えが行われて いたという認識であり、「田植え法が江南系稲作のメ ルクマールとなる特徴で、朝鮮半島の稲作は田植えを 欠いた直播法だった」という事実が考古学者の間では 共有されていないことに原因があることが見えてき た。

Ⅱ.朝鮮半島の田植えなし「乾畓直播法」

2021-10-28 (1)




『直説』が苗種法を避けるように勧めているのは、 朝鮮半島では日本や中国南部地方に比べて梅雨の雨期 が1カ月ほど遅く、田植期に雨が降らないためで、苗 種法は水利条件のよい水田を除いては、きわめて危険 な農法とされたわけで、15 世紀前半において水田比 率の比較的高かった忠南・全北・全南の各道でも、苗 種法(田植え法)はほとんど行われていなかったとい う
【これは読んだことがある。メモまでしたかどうか?】

Ⅱ-2 人耕乾畓直播法の始まりはいつか

【以降は太字だけを眺めた。騎馬民族国家説と似ている。4世紀は中国史書に日本の記述がないため、誰でも言いたい放題である。しかし、現在の7000名以上、1万名以上の大規模サンプルのSNP分析論文2つでは
①九州北部は他地域の日本人と同じ=関東と同じ。即ち、弥生時代の朝鮮半島からの渡来の形跡は、現在では完全に消え失せ、確認しえない
②近畿と東北に明確な差がある=近畿のみキチガイども(朝鮮人)や中国人に近い。即ち、古墳時代と奈良時代の朝鮮半島からの渡来人の影響がハッキリと確認しうる。中国本土からではない。万一、中国本土からであれば、もっとぐっと離れてPCA図に近畿=関西人がプロットされるはずである。

③江南説、著者が言うBルート説の致命的な欠陥は、
*遣唐使の時代でさえ、直接渡海を当初は避けた黄海を突っ切らなければならない。どう見ても、山東半島から遼東半島、そして体感的にわかる気候条件から稲作の適地を求めて朝鮮半島を南下とみるのが正しい。
*万一、長江沿岸部から直接来たのであれば、かなりの規模で船団を組んで日本に来たはずである。しかし、中国史書にはそのような記述は一切ない】
路については従来、朝鮮半島か ら来たという説と大陸から直接来たという説があり対 立していた。朝鮮半島説を積極的に唱えてきたのはお もに考古学者たちで、その根拠は農具や稲作に伴う儀 礼などが朝鮮半島と日本、とくに九州でよく似ている ことにあった。

隋唐帝国と古代朝鮮
中央公論社 世界の歴史⑥
武田幸男

古代朝鮮に関する恐らくは最も詳しい一般向け著作である。武田氏はかつての中国史の一般向けに似た書き方をされている。中国史の英雄豪傑伝的な昔の中国史の記述パターンである。一般向けの為仕方ないが残念である

①この本が出た当時、日本では弥生時代の初め=稲作開始は紀元前3世紀頃とされていた。朝鮮半島の稲作開始が8世紀であれば、国立民族学博物館が正しければ、ほぼ同じ頃に、日本と朝鮮半島でほぼ同時に稲作が始まったことになる
②武田氏は、9世紀における新羅と日本の断交について触れていない。遣唐使のルート変更から見ても断交したのは間違いない。旗田氏は明言している


p251
朝鮮の歴史は古朝鮮で幕が開く。その古朝鮮は三つの王朝からなり、
「壇君朝鮮」から始まる。ついて「箕子朝鮮」がつづき、これを「衛氏朝鮮」がしめくくる

p261
重要なのは、中・南方の河川流域や海岸地域で、紀元前8世紀頃から水稲栽培が広がっていったことである。
青銅器が製作され、使用されるようになった。はじめ西北部に始まり、やがれ紀元前8~7世紀ごろ中・南部に広がっていった

p262
紀元前4~3世紀から、北部各地で鉄器の使用が始まった。
紀元前2~1世紀までには、鉄器の使用は南部においても一般化し

p271
前漢の4郡の時代
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p304
4世紀の初頭、高句麗が楽浪郡・帯方郡の2郡を占領した
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p331
半島の前方後円墳は、既に10基余りが確認されており、その分布は馬韓の南部に限られ、5世紀後半から6世紀にかけて、海岸・河川地帯に集中して築造された
その墳形はどうみても、3世紀以来の列島独自の前方後円墳にそっくりである

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p332
ここには、漢山の落城に前後して、また倭の五王の時代に接続して、突然、前方後円墳を築造した勢力者たちが出現した


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p354
朝鮮半島の南方の小国家の群れがそれである。ここでは加羅諸国と呼んでおく。加羅諸国の始まりは闇の中である。
あえて言えば、その成立は4世紀初頭の前後とみてよかろう。それからの知の200年余り、しぶとく生き続け
6世紀まではかなりの国々が残っていた。

p355
「任那加羅」は金官国(金海)に当てられる。
金官国は加羅諸国を代表し、盟主国の地位を確保した
p357
金官国はそれから100年程ながら得て532年対に新羅に降伏した
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p409
8世紀のはじめと半ばに飢饉や流亡の社会現象が集中的に記録されている。

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Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations

25 August 2020

Takashi Gakuhari, Shigeki Nakagome, […]Hiroki Oota

この論文については、ヤポネシアゲノム 季刊誌 第3巻なつ号2021年8月に解説記事が出ている。 以下は、それからの抜粋

本紹介論文は、2018年のScienceで発表した縄文人のゲノムデータを再解析し、大陸の遺跡出土 古人骨と比較解析した内容をまとめたものである(Gakuhari et al. 2020. Communications Biology)。

今回取り上げる論文は、愛知県田原市の渥美半島の先端近くに位置する伊川津貝塚の縄文人に焦点を当てている。

女性人骨1個体で、私たちは分析IDの”IK002”と呼んでゲノム解析を進めてきた。IK002の土坑墓には、幼児骨である”IK001”とともに縄文時代晩期の渥美半島周辺で広く検出されている五貫森式土器(豊橋市五貫森貝塚が標式遺跡)が共伴しており、IK002は日本列島の先住民である縄文人として位置付けら れている。

IK002の放射性炭素年代測定の結果、暦年較正および海洋リザーバー効果の影響を補正した結果、約2700年前の縄文時代晩期の年代値が得られており(補正前は2500BP)、IK002の生存時期は考古学における編年区分である五貫森式土器の時期と一致した結果を示した。さらに、IK002の形態学的比較においても、IK002が縄文人としての特徴を有することが示されている。

私たちはIK002の核ゲノムデータを、Simon Genome Diversity Projectで公開されている現代人 の高カバレッジデータと既に報告されていた大陸の遺跡出土人骨のゲノムデータと比較し、配列類 似性と遺伝的親和性について検討した。

第一に、約200万の一塩基多型サイト(SNP)を抽出し、主成分分析(PCA)によってIK002と他集団とのデータ類似性を俯瞰視した。 その結果、現代の東アジア人集団の範囲から大きく逸脱し、4万年前の中国北部の田園洞穴出土人骨(Tianyuan)と現代東アジア人集団の中間に位置づけられた(図1A)。

先行研究で公開された北海道礼文島の船泊貝塚から出土した縄文人のゲノムデータを再整理し、上記と同様に主成分分析をした結果、船泊縄文とIK002は近い地点に位置づけられた。次に、北海道の先住民であるアイヌの現代人集団を加えたPCAの結果は、アイヌ人集団が現代日本人よりもIK002に近い地点にプロットされた。

これらの結果は、①縄文人は大陸とは異なり本州中部から北海道まで類似したデータ傾向を有する可能性があること、②本州中部にも縄文時代からアイヌ人集団と類似したデータ傾向を持つ集団が居 住していたことを示唆している。

これらのことから、現代のアイヌ人集団の祖先集団は、北海道から本州における広い範囲で居住していた先住民である可能性が指摘されうる。

一方で、IK002は、 ネパールの少数民族であるクスンダ人集団と近い地点に位置付けられており、主成分分析だけでは 解釈が困難な結果も得られている。主成分分析で得られたクスンダ人とデータ類似性は、遺伝的に 近いと言うよりも、東アジアにおける孤立集団が持つ「どこにも属さない」場合に見られるデー タ傾向をたまたま反映した可能性も残る。

遺伝的距離を可視化するために、Outgroup f3 Testによる相対的な遺伝的親和性を評価しところ、IK002は船泊縄文人、現代アイヌ人、現代日本人、台湾先住民のアミ族などとの間で遺伝的な親和性が高く、クスンダ人とIK002の間で高い遺伝的親和性 を示さなかった(補遺 図5)。

次に、混血イベントの有無を考慮に入れた分子系統解析プログラムのTreeMixを用いて、
これらの結果から、縄文人であるIK002の祖先集団は東アジアにおいて非常に古い時期に東アジア祖先集団から分岐した孤立集 団である可能性が指摘されうる。

 ではIK002の祖先集団はどこからきたかというと、紹介論文ではお茶を濁している。というの も、後期旧石器時代の東アジアへの拡散を正確に復元するためには、北ルートの旧石器時代人骨 のゲノムデータのみでは評価ができないためである。

①BC500年で現在の愛知県から出土の人骨からの分析であるが、驚くことに、北海道の利尻島から出た人骨とほぼ同じ位置に主成分分析図でプロットされている。

言い換えれば、BC500年でも、愛知県附近には、恐らくは外見すら今の日本人とかなり異なる縄文人が暮らしており、かつ、遺伝的な均質性が非常に高いことを示している。ほぼ間違いなく、歴史学者の言うところの7世紀~8世紀の蝦夷である。

②斎藤教授の提唱されている3段階渡来説に従えば、少なくとも、西日本では縄文人よりも弥生人にかなり近い人々が暮らしていたはずだが、愛知県附近では、BC500年=紀元前6世紀には、完全な縄文人が暮らしており、愛知県以西に限定されることになる。

③弥生時代の開始は、民族学博物館がBC1000年頃とする説を提唱し始めたが、九州北部で稲作が開始された後、500年経っても、まだ愛知県附近では、稲作開始は別として、完全な縄文人が生きており、混血は始まっていなかったかもしれないことになる。500年もの間、九州北部かtら人が当方に移動しないとは考えにくいのだが?

ただし、上の解説記事では、BC700年頃と年代が補正されるとのことであるが、論文中にはそのような記述はない。しかし、それでも300年である。

④この論文では、対象人骨は、ミトコンドリアDNAの大区分Nである。Nは、北方系とされる場合が多いが、この論文に従えば、NもMも両方とも南方系かもしれないということになる

Abstract


 Here, we analyze the whole-genome sequence of a 2,500-year-old individual (IK002) from the main-island of Japan that is  characterized with a typical Jomon culture. 

Furthermore, IK002 shows strong genetic affinity with the indigenous Taiwan aborigines, which may support a coastal route of the Jomon-ancestry migration. 

Introduction

To identify the origin of the Jomon people, we sequenced the genome of a 2500-year-old Jomon individual (IK002) excavated from the central part of Honshu to 1.85-fold genomic coverage. 

Our study shows that the Jomon-related ancestry is one of the earliest-wave migrants who might have taken a coastal route on the way from Southeast Asia toward East Asia.

Results

Ancient DNA sequencing of Jomon specimens

We found IK002 to be assigned to mitochondrial haplogroup N9b1, which is rare among present-day Japanese people (<2.0%),, but common in the Jomon

We determined the genetic sex with the method based on the ratio of Y chromosome to X chromosome; the estimate of <0.3 supports that IK002 is female, which is consistent with morphological assessments.

we merged the IK002 genomic data with a diverse panel of previously published ancient genomes24,25,26,27,28,29,30, as well as 300 high-coverage present-day genomes from the Simons Genome Diversity Project31



We extracted genotypes for a set of 2,043,687 SNP sites included in the “2240K” capture panel32.

We found that IK002 sat in between present-day East Asians and a cluster of ancient Hòabìnhian hunter-gatherers and the Upper-Paleolithic (40 kya) individual from Tiányuán Cave17,30,35 (Fig. 1a).

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c Maximum-likelihood phylogenetic tree (TreeMix) with bootstrap support of 100% unless indicated otherwise. The tree shows phylogenetic relationship among present-day Southeast/East Asians, Northeast Siberians, Native Americans, and ancient East Eurasians.

Mbuti are the present-day Africans;
Ust’Ishim is an Upper-Paleolithic individual (45 kya) from Western Siberia
83;
Mal′ta (MA-1)
25 and Sunghir is Upper-Paleolithic individuals (24 kya and 34 kya)29, and
Loschbour is a Mesolithic individual from West Eurasia
88; La368 is a pre-Neolithic Hòabìnhian hunter-gatherer (8.0 kya) in Laos and Önge is the present-day hunter-gatherers in the Andaman island, both of who are from Southeast Asia17; Tiányuán is an Upper-Paleolithic individual (40 kya) in Beijing, China35; Kusunda are the present-day minority people in Nepal; Chokhopani is an Iron-age individual (3.0–2.4 kya) and Sherpa are the present-day minority people, both of who are in Tibet6; Han, Ami and main-island Japanese are the present-day East Asians31; Devils Gate Cave is a Neolithic individual (8.0 kya) in the Primorye region of Northeast Siberia, and Shamanka and Lokomotive are Early-Neolithic individuals (8.0 kya) from Central Siberia, respectively47; USR1 and Clovis are late-Paleolithic individuals (11.5 kya and 12.6 kya) in Alaska and Montana, respectively49,89. Colored arrows represent the migration pathways and signals of admixture among all datasets. The migration weight represents the fraction of ancestry derived from the migration edge.

Third, when using a smaller number of SNPs (41,264 SNPs) including the present-day Ainu36 from Hokkaido (Supplementary Fig. 1), IK002 clusters with the Hokkaido Ainu (Supplementary Fig. 4), supporting previous findings that the Hokkaido Ainu are direct descendants of the Jomon people

Thus, our results indicate that IK002 is genetically distinct from present-day people in East Eurasia or even in Japan, with the exception of the Hokkaido Ainu.

we carried out model-based unsupervised clustering using ADMIXTURE44 (Supplementary Fig. 6). Assuming K = 15 ancestral clusters (Fig. 1b), an ancestral component unique to IK002 appears, which is the most prevalent in the Hokkaido Ainu (average 79.3%). This component is also shared with present-day Honshu Japanese as well as Ulchi (9.8% and 6.0%, respectively) (Fig. 1b). Those results also support the strong genetic affinity between IK002 and the Hokkaido Ainu.

We used ALDER45 in order to date the timing of admixture in populations with Jomon ancestry. 

Using IK002 and the Hokkaido Jomon as a merged source population representing Jomon ancestry, and present-day Han Chinese as the second source representing mainland East Asian ancestry, we estimated the admixture in present-day Honshu Japanese to be between 60 and 77 generations ago (~1700–2200 years ago assuming 29 years/generation), which is slightly earlier than previous estimates8 but more consistent with the archaeological record (Supplementary Data 5). 

This indicates the admixture started and continuously occurred after the Yayoi period. 

Finally, we detected more recent (17–25 generations ago) admixture for the Hokkaido Ainu, likely a consequence of still ongoing gene flow between the Hokkaido Ainu and Honshu Japanese.

The estimates of admixture timing are consistent when replacing Han with Korean, Ami or Devil′s Gate cave as mainland East Asian source population, and exponential curves from a single admixture event fit the observed LD curve well (Supplementary Fig. 7 & Supplementary Data 5).

To further explore the deep relationships between the Jomon and other Eurasian populations, we used TreeMix46 to reconstruct admixture graphs of IK002 and 18 ancient and present-day Eurasians and Native Americans (Fig. 1c

We found the IK002 lineage placed basal to the divergence between ancient and present-day Tibetans
6,31 and to the common ancestor of the remaining ancient/present-day East Eurasians31,47,48 and Native Americans49,50.

These genetic relationships are stable across different numbers of migration incorporated into the analysis. Major gene flow events recovered include the well-documented contribution of the Mal′ta individual (MA-1) to the ancestor of Native Americans25,49, as well as a contribution of IK002 to present-day mainland Japanese 


IK002 can be modeled as a basal lineage to East Asians, Northeast Asians/East Siberians, and Native Americans, supporting a scenario in which their ancestors arrived through the southern route and migrated from Southeast Asia toward Northeast Asia7,17

However, regarding Native Americans, high genetic contributions (11.8–36.8%) were detected from the Upper Paleolithic individual, MA-1, which means that Native Americans were admixture between the southern and the northern routes as shown in Raghavan et al. (2014). 

The divergence of IK002 from the ancestors of continental East Asians therefore likely predates the split between East Asians and Native Americans, which has been previously estimated at 26 kya49

the range of admixture fractions with good model fit is generally quite wide, with best fit models showing IK002-related contributions of 8%, 4 and 41% into Japanese, Devil′s Gate Cave and Ami, respectively (Supplementary Fig. 10 & Supplementary Fig. 11).


We note that this backbone graph fitting assumed an unadmixed Jomon lineage, as opposed to a previously suggested dual-ancestry model where Jomon is admixed between Önge- and Ami-related ancestry. 

Discussion

IK002 is modeled as a basal lineage to East Asians, Northeast Asians/East Siberians, and Native Americans (basal East Eurasians, bEE) after the divergence between Tiányuán and the ancestor of hunters-gatherers in Southeast Asia (Fig. 4)7,17.

2021-10-26 (1)

We clearly show the early divergence of IK002 from the common ancestor of the other ancient and present-day East Eurasian and Native Americans (Fig. 1c).

Given that the split between the East Asian lineage and the Northeast Asians/East Siberian and Native American lineage was estimated to be 26 kya49, the divergence of the lineage leading to IK002 is likely to have occurred before this time but after 40 kya when the Tiányuán appeared (Fig. 4). 

IK002 gave new insights into the migration route from south to north in East Eurasia. The f4-statistics suggest that both the ancient and the present-day East Asians are closer to IK002 than Chokhopani (ancient Tibetans, 3.0–2.4 kya) in the coastal region but not in the inland region (Fig. 3 & Supplementary Fig. 9). 

Here, we provide two explanations for this signal: (1) the earliest-wave of migration from south to north occurred through the coastal region, and/or (2) the migration occurred in both the coastal and inland regions, but the genetic components of the earliest-wave were drowned out by back-migration(s) from north to south occurred in the inland region. In the early migration of anatomically modern humans, the route along the coast has been primarily thought to be important3,53,54,55,56.



Allelic and haplotypic HLA diversity in indigenous Malaysianpopulations explored using Next Generation Sequencing

Timothy A. Jinam 国立遺伝学研究所 のジーナム博士他(斎藤教授含む)

 10 September 2021

国立遺伝学研究所のウェブサイトからこの論文が出されたことを知った。HLA=比喩的に言えば、白血球の血液型が自然選択の指標になりうることを知った。2万もあるそうだ


 When using only HLA SNPs (Fig. 6a) the Han and Cambodians were more basal, and the Jomon now cluster with indigenous Taiwanese (Ami, Atayal).
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their HLA diversity would not only provide insights to their ancestry, but also on the effects of natural selection on their genome.

We utilized hybridization-based sequence capture and short-read sequencing on the HLA region of 172 individuals representing seven indigenous groups in Malaysia (Jehai, Kintaq, Temiar, Mah Meri, Seletar, Temuan, Bidayuh).

Using SNP-based heterozygosity and pairwise Fst, we observed signals of natural selection, particularly in HLA-A, -C and -DPB1 genes.

Consequently, we showed the impact of natural selection on phylogenetic inference using HLA and non-HLA SNPs.

The Human Leukocyte Antigen (HLA) region on chromosome 6p21 is one of the candidate loci that may be under the effects of natural selection [10].

【10は下記論文

D. Meyer, R.M. Single, S.J. Mack, H.A. Erlich, G. Thomson, Signatures of demographic history and natural Selection in the Human Major Histocompatibility Complex loci, Genetics. 173 (2006) 2121–2142.】

These HLA genes are very diverse, with more than 20,000 reported alleles between the nine most polymorphic genes [11], also known as classical HLA genes.

 When using only HLA SNPs (Fig. 6a) the Han and Cambodians were more basal, and the Jomon now cluster with indigenous Taiwanese (Ami, Atayal).

basal

雑穀を食べていた特異な縄文人集団を発見
2021年10月13日
<発表者
米田  穣(東京大学総合研究博物館 教授)他

狩猟採集と補助的な雑穀栽培を行なっていた縄文人発見2例目である


【発表のポイント】
長野県小諸市七五三掛(しめかけ)遺跡で発見された古人骨で放射性炭素年代測定を実施し、15点中13点が縄文晩 期末に、2点が古墳時代に属すると明らかになりました。

縄文時代晩期末の資料で、炭素同位体比が高いという雑穀食に由来する特徴が確認されました。日本の先史時代人骨における雑穀食の確認は、長野県更埴市の生仁(なまに)遺跡につづき国内2例目。
これまでに、雑穀を食用にしていた縄文人集団は見つかっていません。

中国の新石器時代集団と比較すると、雑穀は主食とはなっておらず、縄文人が伝統的な狩猟採集を維持しながら、水田稲作ではなく雑穀栽培を主体的に選択したと考えられます。伝統的な食料獲得と食料生産が併存した、縄文文化の新たな一面が明らかになりました。


【発表概要】
東京大学総合研究博物館の米田穣(よねだ みのる)教授らの研究チームは、長野県小諸市七五三掛 遺跡(注1)出土人骨からコラーゲンを抽出し、放射性炭素年代を測定することで、15点中13点が縄文時代晩期末頃の人骨であることを発見しました。

さらに炭素・窒素安定同位体比(注2)の特徴から、縄文時代晩期末の集団が渡 来文化の一部である雑穀(アワ・キビ)を食べていたことも明らかにしました。

今回の研究成果では、雑穀は食生活 の一部のみを占めることから、狩猟採集による伝統的な生活を継続しつつ、縄文人(注3)が渡来文化を主体的に受 容した様相が示されました。土器表面の圧痕研究(注4)ではイネ(籾)に加え、アワ、キビの雑穀種子も見つかっ ていることから、縄文人集団は中部高地の環境に適した雑穀を選択して生業に取り入れたと考えられます。

2021-10-23 (1)


【研究の背景】
縄文時代と弥生時代の境界は、九州北部に朝鮮半島から水田稲作を中心とした農耕文化が約2800年前に伝来したこ とを契機に、本格的な食糧生産を基盤とする社会に移行した時点とされます。

一方で、縄文時代終末期の土器表面の詳細な調査からは、中部高地や関東でイネ(籾)が存在するものの、アワ、 キビ種子の検出数が上回る傾向が見いだされています。多様な自然の食料を利用しながらも、最近では植物の管理や 栽培が議論されている縄文人が、大陸由来のイネや雑穀(アワ・キビ)をどのよう受容し、栽培を開始したのか、穀 物栽培が当時の生業中でどの程度比重を占めていたのか、その実態を考古学的証拠から復元することは困難でした。


【研究の意義】
七五三掛遺跡では、(1)集団が雑穀を利用していたこと、(2)縄文人に特徴的な顔面形態(図2)や抜歯風習を もつ縄文人が雑穀を食用・栽培していたことが重要な発見です。しかし、雑穀栽培の起源地である中国北部の新石器 時代人骨と比較すると、七五三掛遺跡の縄文人による雑穀利用は食生活の一部を占めるにすぎず、中国新石器時代の 雑穀農民とは大きく異なることも分かりました(図3)

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蒙古襲来と神風
服部英雄

硫黄は確かに火薬の原料かもしれないが、モンゴルの主武器は弓である。
その意味で、珍説とせざるを得ない 

p13
宋への二大輸出品、木材と硫黄

p15
硫黄は火薬の材料として最も重要視された

p17
中国大陸全体では火山がほとんどなかったから自国内で硫黄を得ることが難しかった。
宋は火薬製造の生命線を日本に依存していた

p18
硫黄は戦争の原因となった
宋に軍事物資を供給し続ける日本は叩き潰さねばならなかったのだ

p231
1257年にはまだ南宋帝国があった。文永の役が日本を従えることによる南宋孤立化政策だったことと同じく、ベトナムを従えることによる南宋包囲作戦である



医学教育と人類学の協働のかたち>日本の医学教育にグローバルな視野をもつ人類学の研究知見を導入する 

道信良子 (札幌医科大学 医療人育成センター 教養教育研究部門 准教授 )

医療人類学という分野が存在することを初めて知った。
Susto DSM-5で検索すると、https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK248426/table/appe.t1/
があり、sustoがやはり出てくる。人類学に分類しておく

DSM-5 Cultural Concepts of Distress

Ataque de nerviosCommonly reported symptoms include uncontrollable shouting, attacks of crying, trembling, heat in the chest rising into the head, and verbal or physical aggression. Dissociative experiences, seizurelike or fainting episodes, and suicidal gestures are prominent in some attacks but absent in others. A general feature of an ataque de nervios is a sense of being out of control. Ataques de nervios frequently occur as a direct result of a stressful event relating to the family (e.g., death of a close relative, separation or divorce from a spouse, conflict with spouse or children, or witnessing an accident involving a family member). People can experience amnesia for what occurred during the ataque de nervios, but they otherwise return rapidly to their usual level of functioning. Although descriptions of some ataques de nervios most closely fit with the DSM-IV description of panic attacks, the association of most ataques with a precipitating event and the frequent absence of the hallmark symptoms of acute fear or apprehension distinguish them from panic disorder. Ataques range from normal expressions of distress not associated with a mental disorder to symptom presentations associated with anxiety, mood dissociative, or somatoform disorders.Caribbean, Latin American, Latin Mediterranean


Dhat (jiryan in India, skra prameha in Sri Lanka, shen-k'uei in China)A folk diagnosis for severe anxiety and hypochondriacal concerns associated with the discharge of semen, whitish discoloration of the urine, weakness, and exhaustion.Asian Indian
NerviosRefers both to a general state of vulnerability to stress and to a syndrome evoked by difficult life circumstances. Nervios includes a wide range of symptoms of emotional distress, somatic disturbance, and inability to function. Common symptoms include headaches and “brain aches,” irritability, stomach disturbances, sleep difficulties, nervousness, tearfulness, inability to concentrate, trembling, tingling sensations, and mareos (dizziness with occasional vertigo-like exacerbations). Nervios tends to be an ongoing problem, although it is variable in the degree of disability manifested. Nervios is a broad syndrome that ranges from cases free of a mental disorder to presentations resembling adjustment, anxiety, depressive, dissociative, somatoform, or psychotic disorders. Differential diagnosis depends on the constellation of symptoms, the kind of social events associated with onset and progress, and the level of disability experienced.Latin American

Shenjing shuairuoA condition characterized by physical and mental fatigue, headaches, difficulty concentrating, dizziness, sleep disturbance, and memory loss. Other symptoms include gastrointestinal problems, sexual dysfunction, irritability, excitability, and autonomic nervous system disturbances.Chinese

Susto (espanto, pasmo, tripa ida, perdida del alma, or chibih)An illness attributed to a frightening event that causes the soul to leave the body and results in unhappiness and sickness. Individuals with susto also experience significant strains in key social roles. Symptoms can appear days or years after the fright is experienced. In extreme cases, susto can result in death. Typical symptoms include appetite disturbances, inadequate or excessive sleep, troubled sleep or dreams, sadness, lack of motivation, and feelings of low self-worth or dirtiness. Somatic symptoms accompanying susto include muscle aches and pains, headache, stomachache, and diarrhea. Ritual healings focus on calling the soul back to the body and cleansing the person to restore bodily and spiritual balance. Susto can be related to major depressive disorder, posttraumatic stress disorder, and somatoform disorders. Similar etiological beliefs and symptom configurations are found in many parts of the world.Latino American, Mexican, Central and South American

Taijin kyofushoThis syndrome refers to an individual's intense fear that his or her body, its parts, or its functions displease, embarrass, or are offensive to other people in appearance, odor, facial expressions, or movement. This syndrome is included in the official Japanese diagnostic system for mental disorders.Japanese



3 医療人類学の授業事例

3-2 文化人類学の事例 : ススト 


文化人類学で発展した医療人類学の事例には、“The Epidemiology of a Folk Illness: Susto in Hispanic America”[Rubel 1964]を使う。この論文は Ethnology に掲載された医療人類 学の古典的研究である。著者の A. Rubel は、イスパノアメリカの文化圏に見られる文化 結合症候群ススト susto に関する人類学調査を行っている。



 スストの症状は、安眠できない、倦怠感がある、食欲がない、衣服や衛生にも興味がな い、活力がない、うつ気味、内向的であるなどで、スストを患っていると死亡率が高まる ことも指摘されている[Krejci 1992]。

スストは、本人の無力感をともなう。それは、周りの社会からの期待が重荷になり、十 分に応えきれないと感じているとき、あるいは応えることがストレスになっているとき に、発症する。インディオにも、メスティーソにも、同様の発生要因がみられるが、しか し、インディオはそれを「霊」の仕業と、読み替える。すなわち、土地に住んでいる守護 霊がスストを引き起こす主体であると考えている。それは、治療師による儀礼によって解 決されなければならない[Rubel 1964]。


スストと同じく文化結合症候群に分類されるマレーシ アやインドネシアのアモック(amok)、中国をはじめアジア各地に見られる縮陽症(コロ Koro)など、強いストレスによって引き起こされるパニック症状を総称して「不安の語 法 idiom of distress」[Nicher 1981]と呼ぶ医療人類学者もいると説明する。

3-4 民族医学・医療 (Ethnomedicine)  
特定の民族や文化集団に共有されている医学・医療体系(medical systems)およびその 研究のことを民族医学/医療(Ethnomedicine)という。







1. 遺伝学論文から、伽耶地域に、遺伝的に見れば今日の日本人と全く同じDNAの者が、進出し、支配的地位であったことがわかっている。
2. 反面、現代日本人SNP分析では、近畿は明らかに他の地域、特に東北と異なる。

p234
815年(弘仁6)に成立した「新選姓氏録」には畿内に居住する1182氏について、その出自と系譜が記されている。そのうちほぼ三分の一が渡来系氏族である。漢(中国)・百済・高麗(高句麗)に出自を求める氏族が多い。新羅な少なく、任那(伽耶)とする氏族は10氏に過ぎない
漢に出自したと主張する氏族の大半は後述するように実は伽耶出身だったとみられる

p241
伽耶地域における近年の発掘調査成果には目覚ましいものがあり、
小国の連合でありながら、伽耶が562年(欣明23)に至るまで、高句麗・新羅・百済の三国と倭国の間にあって独自の勢力を保ちえたのは、西海・東海の黄海圏を掌握していたことと、豊富な鉄資源を保有していたことによる

p243
5世紀中葉から6世紀初めにかけて、河内・大和から大量の朝鮮系土器(伽耶地域の土器)が出土する事実からも、

p248
第二回目の大きな渡来の波は5世紀後半の雄略朝にあった。その大きな契機になったのは、
高句麗が百済を攻撃
百済の

は戦死し遷都したことにある

p250
小林行雄によれば、倭国では4世紀にはまだ乗馬の風習がなかった

Culture‑Bound Syndromes and Cultural Concepts of Distress in Psychiatry
TOMÁS TEODORO*1,2, PEDRO AFONSO3
2020


Culture‑bound syndromes (CBS) と cultural concepts of distressの違いについて知りたくて流し読みしてみたが、両者がどのように異なるのかについては、?である。ほぼ同じ意味で使用されているように思える。ただし、この論文で、世界の文化症候群CBSはほぼ全て網羅されている。


Culture‑bound syndromes (CBS) and cultural concepts of distress include syndromes or disease manifestations whose occurrence is related to particular cultural contexts. The term CBS is controversial, because ultimately all psychiatric and medical conditions are associated with culture.

CULTURE‑BOUND SYNDROMES AND CULTURAL CONCEPTS OF DISTRESS
【以下にCBS名と民族名のみメモしておく】
Amok is etymologically related to the Malayan “meng‑ ‑âmuk” which means “to make a furious and desperate charge”.13
【この著者は間違えている。アモックはビルマ人によくみられるはずだが、ビルマについて言及していない】

Ataque de nervios is a Hispanic term, meaning “attack of nerves” describing this syndrome first described in Puer‑ to Rico (“Puerto Rican syndrome”),

【数が多いので、火病のみ】
Hwa‑byung is a Korean expression meaning “fire sickness” or “anger disease”.42,43 First described in South Korea there are also some literature reports from the United Kingdom and USA.44

More common in females with a male to fe‑ male ratio of approximately 1:3.44

This idiom of distress occurs in relation to interpersonal conflicts and adverse life events with suppression of emotional reactions.14,42

Conceptualized as an accumulation of anger, its onset is

More common in females with a male to fe‑ male ratio of approximately 1:3.44

usually insidious and consists of several affective, cognitive, somatic and behavioral symptoms (anxiety, irritability, insomnia, heating sensations and cognitive distortions with pessimism).43 It is presumed that the dynamics behind its emergence is related to the role of women in Korean so‑ ciety. At its core is a chronic buildup of resentment from women subjected to adverse life events without external emotional manifestations of frustration in order to avoid disturbance of family stability


【44と45の論文はつぎのとおり】
44. Lin KM, Lau JK, Yamamoto J, Zheng YP, Kim HS, Cho KH, et al. Hwa‑byung. A community study of Korean Americans. J Nerv Ment Dis. 1992;180:386‑91.

45. Min SWK. Hwabyung: a culture‑related chronic an‑ ger syndrome of Korea. The First World Congress of Cultural Psychiatry Proceeding. 2006; S‑III‑23.

Hwa-byung: A community study of Korean Americans

Lin, Keh-Ming Lau, John K. C. Yamamoto, Joe Zheng, Yan-Ping Cho, Kyu-Hyoung , Gayle
(1992).

確認できる範囲で火病についてHwa-byungと英語表現した最初の論文でろう?109名の在米コリアンを対象に電話インタビューで自己申告で自分は火病だとした者が約12%。この要約には文化症候群という表現は出てこない。従って、1992年当時は韓国文化と関連するうつ病の一種だと考えられていたようだ。Hwa-byungという奇妙な英語は韓国語の発音であるhwabyeongをそのまま英語のスペルに当てはめたと思われる。その後、1999年4月1日に

Construction of Korean Popular Illnesses: A Qualitative Analysis of Han, Hwabyung, and Shingyungshayak among Korean Immigrants

という論文でも同じ表現が使用され一般化した


Abstract

109 Korean Americans were interviewed by phone regarding their experiences with hwa-byung (HB), a Korean folk illness label commonly used by Koreans with a myriad of physiological and psychological complaints. During these interviews, standard instruments were also used to assess Ss' depressive and somatic symptoms. 11.9% of the Ss labeled themselves as having suffered from HB.

While no apparent sociodemographic differences were found between HB and non-HB Ss, significantly more HB Ss fulfilled the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-III (DSM-III) diagnosis of major depression and also had previous diagnoses of depression. The HB Ss also had significantly higher scores for the total, depressive, and somatic subscales and 16 of the 20 individual items of the Center for Epidemiologic Studies Depression Scale. HB may be a culturally patterned way of expression for Koreans experiencing major depression and related conditions. 

Study on the Prevalence of Hwa-Byung Diagnosed by HBDIS in General Population in Kang-won Province
Published : 2008.07.30
Lee, Jin -Gyu

要約のみが英文で本文はハングルである。火病は明らかに女性のみが症状を見せるわけではない。
600名を超える大規模サンプルであるが、40歳以上の男女のみを対象としている


The purpose of this research was to investigate the prevalence rate of Hwa-Byung for the whole population in a local community.

Method : Hwa-Byung Diagnostic Interview Schedule(HBDIS) was carried out for 671 participants in Wonju Cohort study.

HBDIS is objective questionnaire for diagnose Hwa-Byung. Collected data was analyzed by the chi-square test.

Result: Prevalence rate of Hwa-Byung was 5.4% in the whole population. Prevalence rate of Hwa-Byung in male participants was 2.5%, 1.5% in 40s, 3.2% in 50s, 2.5% in 60s. Prevalence rate of Hwa-Byung in female participants was 7.4%, 7.6% in 40s, 5.5% in 50s, 8.7% in 60s.

Conclusion : There was significant difference on the prevalence rate of Hwa-Byung according to sex.


2021-10-15


2021-10-15 (1)

朝鮮女性の知の回遊
朴 宣美

韓国で修士課程を終えた後、アメリカ留学後に日本留学。事実上は博士論文の内容に付加しもの。
李朝朝鮮は、同じ民族を奴隷として売買していた稀有の例であるが、女性が事実上は奴隷であったことを完全に忘れていた。しかし、本書中の「日本への留学」という著者の表現は明らかにおかしい。分析の対象となったのは、日本統治下の時期であり、パスポートすら全く不要で朝鮮半島は日本国内であったのだから「留学」などではない。

西欧人が喝破した「遺伝と教育により朝鮮人は恥知らずの嘘つきである」や朝鮮統治に当たった多くの者の印象「朝鮮人はほとんど先天的な嘘つきでる」は本書にはあてはまらないが、画像でメモした初等教育の男女差が1941年ですら男2対女1であるのには驚愕せざるを得ない。


p28

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【真に驚愕のデータである。儒教の強い影響を端的に示すデータである。朝鮮人女性は、1941年頃、推定で少なくとも80%程度は初等教育を終えていないことになる。簡単な足し算引き算もできなかったのである。金学順という売春婦(従軍慰安婦)が、稼いだ多額のお金をあっさりとあきらめた旨を韓国人が反日種族主義という本で書いているが、その根本理由は、簡単な計算ができなかったからだったのだ。謎が解けた!

ウキペディア記事によれば「初等教育就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった。」としているが、上の表と合わせると、49%を男2女1の比率で計算すれば、女の就学率は18%程度である。売春婦(従軍慰安婦)のほぼ全員が簡単な足し算引き算もできなかったと考えてよい】

p164
1890年代「奴隷」状態の朝鮮女性を「開放」する近代的言説として導入された「母・妻」論(19世紀末期の良妻賢母論)は、
【著者は朝鮮女性が奴隷状態であったことを認めている。それを解放したのは日本である。まさしく、遺伝的異常民族と呼ぶべきであろうが、今日の日本人はその点に気づいてはいない!少なくとも、江戸時代において日本人の女性は奴隷状態ではなかった。】

実録 朝鮮戦争
崔 極

驚いたことに、韓国で出版されたのではなく古希を迎えた韓国人が日本語で書いたものである。長年付き合いのある群馬県の株式会社カワシマという100%確実に在日系企業の会長からパソコンを韓国人がプレゼントされたのを契機に日本語で書いたものを山口大学農学部の牧田登之教授に見てもらい校正を繰り返して書いたのだという。光人社は現在は産経新聞が買収しているが、戦記物を多く出している。
驚愕するのは、著者の略歴が「1955年~95年政治活動」とあるだけでほぼ不明である点である。韓国社会の裏社会=闇の一員とみて間違いない。全大統領当時に、これら韓国の裏社会の構成員の多くが処分されたが、生き残ったのであろう。ほとんど読んでないが、メモだけはしておく。砲兵隊所属の将校であったそうだが?


p185
智異山にゲリラ討伐の為に移動するのである

p219
身を潜めていたゲリラが銃を捨てて、
降伏してきた。捕虜は全部で17名、そのうち5、6名が女性と見られた。ボロボロに汚れた着物を着て、異臭が鼻をついた。全くこの世のヒトではないような乞食の群れだった。それでも様々な旧式の小銃を持っていたからゲリラには違いない
【20世紀初頭に某アメリカ人が鋭く指摘したように、遺伝と教育により、韓国人男性のほとんどは、大げさな物言いをし極端な誇張をするか、又は、単なる恥知らずな嘘つきであるが、この記述は、本当であると推察される。朝鮮戦争におけるゲリラの一側面であり、その多くは直ちに射殺されたと推定されるが、捕虜として引き渡したと明記】

p254~p257
上官殺害の悲劇
大隊長はその場で即死した
【殺したのは中隊長であったとのこと。大隊長が中隊長に向かって拳銃を抜こうとしたところ、逆に射殺されたとのこと。第二次大戦当時の日本の陸軍の通常編成の歩兵大隊であれば、大隊長は800名程度(4個の歩兵中隊)の部下を有する将校である。このような異様な事例は、恐らくはただの一つもないはずである。(最大400万以上の兵員数であったため、ゼロではなかったかもしれない)

韓国人男性の激情がよく見て取れる。朝鮮戦争では、人口比で見た場合には、民間人が異常に多く戦闘の巻き添えではなく、殺されていることは確実であるが、軍人ですら、激情の結果としてこの状態であることに驚愕する。全ゲノムシーケンスすれば中国人・日本人とは非常に異なる朝鮮人の特異なDNAは既に3つの集団遺伝学論文からみて明らかであるが、その変異(非同義配列多様体)は肉体面ではなく精神面に強く形質として発現している実例であろう。遺伝子を特定するとすれば、MAOA遺伝子が原因とみて間違いない。】

p275
政府の記録によると戦争の人的被害は、韓国の民間人死亡者37万3599名
行方不明者38万7744名
北の民間人犠牲者も、死亡、負傷、行方不明合わせて270万人を超えていた
【韓国政府発表の正確な数値と見てよい。この数値が韓国内では民間人犠牲者数と見なされているのであろう。民間人死亡と行方不明合計で約76万人にもおよぶ。当時の人口は、約3000万弱程度であった。米軍推計値では、民間人死亡と行方不明合計で約100万人。学者推計(和田春樹)では約35万。どれが正しいのかは?であるが、すざまじい「同胞殺し」=「民間人虐殺」が行われたことは間違いない。恐らくは、米軍推計が正しい。このうち、李承晩が処刑命令を出した又は黙認した保導連盟処刑は、5万人程度かもしれない。F.Aマッケンジーは若い頃の李承晩を好意的に書いているが、保導連盟処刑を知ればどう思うのであろうか?彼らの特異なDNAに起因する激情が主原因と見て間違いない。】





韓国現代史 ⅱ
韓 洪九

韓国人によるベトナム戦争での民間人虐殺の正確な数は、今も不明である

p22
中国人が経営する商店という商店は、国中ほとんどが火をかけられ破壊された。少なくとも百数十人の命が奪われた。大規模な反中国人暴動が1931年7月初旬

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p26
中国人がいた所ではどこでも暴動が起こったと言っても過言ではありませんでした。全国の中国人街は文字通り血なまぐさい修羅場になったのです。

p31
1970年代初めに3万5千余であった華僑はいまや2万名余りです。チャイナタウンがない国、華僑資本が成功できない国、華僑数が毎年減り続けている国。この3条件を満たす国は韓国だけです。

p35
韓国軍によって虐殺された民間人5千人という数字が死亡者全体の中で占める比率は実際には極めて低いでしょう

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p37
ベトナム戦争での民間人虐殺の大部分が、よりによって韓国軍によって行われたという事実は、実に不幸なことです

p49
今まで約80余件の虐殺の事例が分かっていますが



稲作の伝来
甲元, 眞之【東京大学 物性研究所, 准教授】
2005-07-15

日本へ のイネの伝 来ル ー トにつ いては現在、① 農学者や民俗学者が提起する台湾 と琉球列 島 を経 由 して きた とする説、② 民族学者が想起す る東中国海 を横 断 して直接九州に もた らされた とす る説、③考古 学者 と一部 の農学者が主張す る山東半島~朝鮮半 島を経て 日本列 島に到来 し た とす る説が展 開 されてい る

歴史学者は100%近く朝鮮半島からとしている。①~③の記述根拠となる論文等が引用文献には見当たらない。①については、水田耕作ではあり得ないし、そのような記述を見たことはない。

 内容は、日本語の起源に関する論文と完全に一致してる


これ ら栽 培 穀 物 の所 属 す 縄 文 時 代 後 期 か ら晩期 にか けて で あ り、土 器 に付 着 した資 料 と も符 合 す る 。従 っ て 紀 元 前 二 千 年 紀 以 降 に は イネ を含 め た複 合 的 な農 耕栽 培 が 営 まれ て いた こ とは確 実 で あ る と言 え る。

1.縄 文 ・弥 生 時 代 の 栽 培 食 物 弥 生 時 代 前 期 に検 出 され る穀 物 もイ ネ以 外 に オ オム ギ 、 コム ギ、 キ ビ、 ダ イズ 、 ソバ 、 ヒエ 、ア ワ 、 ア ズ キ な ど各 種 に及 んで い る。 また栽 培 され た植 物 にはモ モ、 ウ メ、 ヒ ョウ タ ン、 ナ ス 、ウ リ類、 アサ 、 ゴボ ウな どと広範囲 に達 してい る。 これ らイネ以外 の栽培食物 は中国の新石器時代 に多 く認 め られ るものばか りであ るが、 中国の中で も黄河流域以北 の畑作地帯で栽培 された種 と共通す る ものが大部分 を占めているこ とは極 めて注 目される(甲 元2001)。

韓国 の新石器 時代 か ら青銅器時代 にかけて見 られ る栽培穀物 には、イネ以外 に、 キビ、 アズ キ、ダイズ、モ ロコシ、アワ、オオムギ、コムギ、 ヒエ、エ ンバ クな どが あ り、モモ も検 出 さ れ ていて(Shim2000、 甲元2000)、 日本 の縄文時代か ら弥生時代 にか けて栽培 された穀物 と ほ とん ど変 わる ところはない。 以上栽培 された食物 の品 目の組み合わせ か らみ ると、 日本の初期農耕文化 が韓 国の新石器時 代 か ら青銅器 時代 の農耕文化 と密接 な関連 の もとに営 まれた ことを明 白に窺 うことがで きる。

3.水 稲栽培 の系譜
九州地方 と韓半 島 とのつ なが りが明確 にな るのは、縄文時代前期 のこ とで あ り、佐賀県腰 岳 産 の黒 曜石 が韓 国南 部 の東 三洞貝 塚(Sample1974)な どをは じめ とす る遺跡 か ら発見 され てい る。

漁携具 の 中で、結 合式釣針 、鈷(石 製鈷、組合せ鈷)、 回転式 離頭鈷 な どは韓 国南 ・ 東 海岸地域 か らロシア領沿海州地域 の寒流系 漁掛具 と共通する ものであ り、海獣類 や大 型魚類 を捕獲す るための もの であった と推定 されてい る。一方逆T字 形釣針 は山東半 島や遼東半 島、 それ に韓 国南部 沿岸 地域 と西北九 州 に分布 が認め られ黄海沿岸地域 で共通す る漁携具である。

この逆T字 形 釣針 は延縄 漁携 に使 用 され、マ ダイ、 クロダイ、スズ キな どの沿 岸 に棲 息す る 魚類 を主 た る捕獲 の対象 とす る もので あ った(甲 元1999b)。

この逆T字 形釣 針が認 め られ る山東半 島や遼 東半島で はイネ を含 めた農耕が営 まれていた ことは、出土 した穀物資料 によ り 確 か め られている し、韓 国南部 で も多 くの遺跡か ら様様 な種類 の栽培穀物が検 出されてい る。 また この逆T字 形釣 針が盛 行す る時期 は紀元前二千年紀 であ り、遼東半 島 に稲 作栽培 の痕跡 が認 め られ る最古 の時期 と符合 して いる(DahanInstituteofCulturalRelicsandArchaeology 2000)。

この こ とか ら、逆T字 形釣針 は稲作栽培 を含 めた農耕 文化 と密接 に関連す ることが分 か る。縄 文時代 後期 は温 暖期 に相 当 し、漁掛活動が活発 に展開 していた。漁携具 の共通性 とそ の漁携 具 を使 用 しての共通 する魚類 の捕獲 という類似点 は、黄海沿岸 地帯 を巡 る大 きな文化 交 流が あ ったこ とを明白 に示 唆す る もので あ り、 日本列 島へ の稲作栽培 の登場 も、 こうした漁携民の活動 に依拠す る ものであ った こ とは容易 に理解 されるのであ る。

Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomarisite in Hokkaido, Japan
Hideaki Kanzawa et all
15 April 2019

図12では、アイヌが最も近くにプロットされている

Abstract

The Funadomari Jomon people were hunter-gatherers living on Rebun Island, Hokkaido, Japan c. 3500–3800 years ago. 

 a Funadomari Jomon female (F23) and male (F5)

 Moreover, a pathogenic mutation in the CPT1A gene was identified in both F23 and F5. The mutation provides metabolic advantages for consumption of a high-fat diet, and its allele frequency is more than 70% in Arctic populations, but is absent elsewhere. This variant may be related to the lifestyle of the Funadomari Jomon people, who fished and hunted land and marine animals

. We observed high homozygosity by descent (HBD) in F23, but HBD tracts longer than 10 cM were very limited, suggesting that the population size of Northern Jomon populations were small.

the Northern Jomon people were genetically isolated from continental East Eurasians for a long period.

Moreover, the Y chromosome of F5 belonged to haplogroup D1b2b, which is rare in modern Japanese populations.
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Figure 2. Photo of female 23 (F23), whose genomic DNA sequence was determined. Scale bar = 10 cm.



Introduction

The Jomon period lasted from about 16000 to 2900 years ago (Habu, 2004; Fujio, 2015),

Here, we report the high-quality nuclear genome sequence of a Jomon female and a low-coverage genome sequence of a Jomon male obtained from the Funadomari site on Rebun Island, Hokkaido, Japan.

 Results

mtDNA and Y chromosome haplogroups in Funadomari Jomons

We determined complete mitochondrial genome sequences of F5 and F23 and concluded that the mtDNA haplogroups of both individuals were N9b1.

The Y chromosome of F5 belonged to haplogroup D1b2 (Supplementary Table 5).

To clarify the phylogenetic position of F5 within the D1b2 lineage, we constructed a maximum likelihood tree using the Y chromo somes of F5 and 1233 modern human males. F5 was located in haplogroup D1b2 and clustered with NA19004 (a modern Japanese individual), who belonged to D1b2b (Figure 5).

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HLA haplotypes of F23

Thus, the HLA class I genotypes of F23 were HLA-A*24:02:01/A*24:02:01, B*15:01:01/B*15:01:01, and C*03:03:01/C*03:03:01.

HLA-A*24:02 is widely observed in world populations and is one of the most common HLA haplotypes in Taiwan populations and Southeast Asians. Three Japanese populations (Ainu, Mainland Japanese, and Ryukyuan) also have this haplotype at high frequencies (24.0%, 32.7%, and 33.5%, respectively)

 The most frequent HLA-A*24:02 haplotype in Ryukyuan is A*24:02:01, which is the same as that of F23 and is not frequently observed in other East Asians (Supplementary Figure 9a).

Phenotypic inference of F23

Her ABO and Rh blood types were Ax02/O02 or O65 (AO) and DcE/DcE (RhD+), respectively. 

Alcohol tolerance was high (variants: 47Arg in ADH1-B and 504Glu in ALDH2), and skin and iris colors were classified as moderately dark (variants: 163Arg in MC1R and His615Arg heterozygous in OCA2) and medium (His615Arg heterozygous in OCA2), respectively.

Genomic features of F23

F23 had a low heterozygosity and a high HBD compared with other SGDP individuals (Supplementary Figure 10), indicating that F23 had a low genetic diversity, although she was located within the range of modern humans.

 Genetic uniqueness of Funadomari Jomons

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Figure 8. Principal component analysis. About 450000 SNPs are shared among all four Jomon individuals. (a) Funadomari Jomon, Ikawazu Jomon, Sanganji Jomon, Devil’s Gate, Tianyuan, ancient Southeast Asians (aSEA), MA1, Ust-Ishim, SGDP, and 1000 Genomes Project worldwide humans. (b) Funadomari Jomon, Ikawazu Jomon, Sanganji Jomon, Devil’s Gate, Tianyuan, ancient Southeast Asians (aSEA), SGDP, and 1000 Genomes Project East Asians.

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Figure 12. Principal component analysis of F23, Ainu, Ryukyuan, Mainland Japanese, and fully public Affymetrix Human Origins present-day East Asians.

When worldwide populations were compared with F23 using PCA, Funadomari Jomons were closer to East Eurasians than to Africans, Europeans, Sahulians, and Native Americans (Figure 8a),consistent with the previously reported Sanganji Jomon genome (Kanzawa-Kiriyama et al., 2017).

 Next, comparison with East Asians showed that Funadomari Jomons were distinct from other modern East Eurasians. Modern Japanese individuals were situated between Jomons (Funadomari, Sanganji, and Ikawazu) and continental Northeast Eurasians (CHB, Naxi, and Yi; Figure 8b). The four Jomon individuals clustered tightly.

Native Americans initially diverged from modern East Asians c. 36 ± 1.5 ka, with gene flow per - sisting until c. 25 ± 1.1 ka (Moreno-Mayar et al., 2018), im - plying that the split time of F23 from other populations was before or around 25000 YBP, which was within the range of divergence time between F23 and Han, i.e. 18000–38000 YBP, as estimated by MSMC analysis.

Thus, it is more plausible that Funadomari Jomons had deep divergence without any gene flow with outgroups.

Genetic affinities to coastal and marine areas of East Asians in Funadomari Jomons

We tested F-statistics using both array-based data and genomic data to examine the signature of the admixture event.

The affinity be tween Devil’s Gate and F23, observed in outgroup-f3- statistics, was not supported. Although Tibetan and F5 share the same Y-haplogroup, D, the affinity with F5 in Tibetan compared with other East Asians was not identified.

ハンと韓国の宗教史

国際日本文化研究センター   
申   昌 浩【現在は京都精華大学教授】

ハンという韓国語に関する解説であるが、ハングルは、偉大な文字という意味なのだそうだ
ハンには、様々な意味があることを知ったが、 新羅て王をハン又はカンと呼んでいたことが注目される
 


 近代以後,形成された韓国人の美意識は,自国の文化に対して‘ハン’の文化であると論じ てきた。それも「自分の受けている苦しみや圧迫が,不当なものである」*2という意識が前提 があってハン(恨)になるという。こういった文脈をもって韓国人には,誰しもが“ハン(恨)” をもっているといい。*3そういわれている。しかし,そのハンに対する概念に関する規程や定 義は,未だ定まっていないのである。

ハンと言う言葉自体は,
昔から韓国人がよく口にしてきた純粋なハングルである。しかし,ハンに漢字を当 てた瞬間,ハンは‘うらみ’の‘恨’や‘怨念’になってしまうのである。

 論者は,韓国人として韓国人たちを見ると,‘彼等(我々)の心の中には,ハン(恨・韓) が募っており,そのハンを巧く解消する方法を用いている民族である’と思う。それに今日の 韓国では,‘韓国人がもっている‘ハン’は,恨みの‘ハン’ではなく,韓民族の‘ハン’,偉 大なる‘ハン’,無限の‘ハン’,唯一の‘ハン’などであると示している。それを強く主張し, 論じている。

 まず,“恨みのハン”以外にどのような形で“ハン”の概念が取り上げられてきたのかとい うと,

①数量的な「一」を表す概念としてハン。ハンは,数量の「一つ」を表すと同時に「全 体(いわゆる,すべて)」を表す概念でもある。例えば,仏教の「諸行無常」の「諸」を訳し て「ハン」と言い,一即一切,多即一切がすなわち「ハン」である。ハンは無限と終わりのな い状態を表している。

②「大」を表す概念としてハン。ハンには,偉大の意味もあり,新羅時 代の王の称して「汗(ハン)」,または「干(カン)」といっていたのである。

③天の神を表す 概念としてハン。「大」と「全体性」と「無限」の概念から,「天」または「宇宙」を表す。韓 国では,天の神様を「 (ハンニム)」,または「 (ハンウルニム), (ハヌル ニム)」というが,ニムは人格に対する尊敬語である。

④韓国である「ハングル」は,ハン(偉 大な)+グル(文字)を意味しており,これまでの意味を包含している。今日の韓国( , ハンック)の名称が,これから由来する。*4 


これまでのハンに関する論議を整理してみると,1)情恨論,2)願いとしての恨論,3)心理的葛藤の複合体と見るハン(恨)論, 4)凝る・溶けるの二元対立の構造と見るハン論,5)民衆的行動の推進力と見るハン論など*5 と要約することができる。

高麗時代の仏教寺院は広大な土地を所有しており,商業と高利代 金業などを行っており社会経済の矛盾を潜んでいた。新朝鮮王朝の排仏政策は,国家経済を立 て直す目的と儒教の普及と確立に大きく関わりを持っている。何よりも,国家財政の確保が急 務であった新王朝は,その解決策として寺院が所有している財産の没収と,これまでの社会腐 敗の根源とされた仏教寺院の富と権勢を奪い取るためであった。*17

ハンの概念 には,多様多彩な意味を含んでいる。「一,大きい,偉大な,高い,頭,総合性,統合性,明 るい,多い」などがあり,その中には対立の観念をもつ物の総合された状態を示しているともいえる。


日本史誕生
佐々木高明

日本語の起源に関する記述が印象的であったので、言語学にも区分しておく

p115
縄文時代中期の中頃以後、気候は次第に冷涼になり、縄文時代晩期(3000年前後r)には、現在よりも平均気温が1度ほども低くなる。しかし、縄文時代の前期にいったん西日本に広がった照葉樹林はこの程度の気温の変化では、低地部分の分布域を大きく変えることはなく、晩期になってもそのまま生存を綴れていたようである。
この時代にはいいって、東日本と西日本の森林植生の違いはより際立ったということができる
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p213
国立民族学博物館の小山修三氏は、
縄文時代の日本(北海道を除く)人口は、その中期が最も多く、全国で26万人余りと推算されている。しかもその人口の大半は、東北地方の南部から関東地方、中部地方の内陸部などを中心とし、東日本の落葉広葉樹林帯に分布していた。
これに対し、当時、西日本の照葉樹林帯の人口は極めて少なかったようだ。
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p214
縄文人にとって、最も重要な食料資源だったクルミ、栗、トチなどの大型堅果類や河川を遡上してくるサケやマスなどの資源については、東日本に著しく偏在し、西日本には乏しい
そのうえ、西日本の照葉樹林そのものは暗く住みにくい森林でその緑辺の二次林の地帯が人間の活動空間として利用されたに過ぎなかった
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p252
日本語と琉球語の母音の間にはこれによって音韻対応が成立していると言えるのであり、
比較言語学の研究では、言語の系統が同系であることを証明するには、このような厳密な音韻対応の法則が成立することが必要だとされてきた
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モンゴル語やツングース語、さらには朝鮮語と日本語の間には、わずかばかりの対応の例があるほかは、音韻対応の事例は、いまのところほとんど見出されていない
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p253
チベットビルマ語研究の第一人者である京都大学の西田龍雄氏
古代日本語は、数種類の言語から何らかの影響を受けてはきたが、「日本語の中核的な部分については、チベット・ビルマ系言語と同じ祖形から来源している」ことは確かだというのである

p259
縄文時代の前期以降、照葉樹林文化と共に何らかの南方的な言語が日本列島に伝来し、北方的な基層語と混合したことは間違いないようである
稲作文化を担った人々は朝鮮半島からある種の国家原理と共に、たぶんアルタイ系の言語を伝えたであろうし、
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p282
1976年
釜山
の古墳群で起元1世紀から6世紀頃の多数の人骨が発見された
日韓合同の学術調査が行われた
埴原氏は
他の人骨との比較を試みた。その結果、全体は大きく
①土井カ浜タイプ②縄文人タイプ③現代人タイプに分けることができたという

p283
土井カ浜人を代表とする北九州型の弥生人の故郷は朝鮮半島にあったことがほぼ明らかになったと言える




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p287
埴原氏は二つの方法でそれを推定しようとした
埴原氏は世界の農耕民族の資料を種々検討し最大0.2%という人口増加率を設定した。その結果、縄文時代晩期の人口約7万6000人が7世紀に約540万人に増加するためには約150万人の渡来人がやってきたことになり、この場合の7世紀における縄文人直系と渡来人系人口比は1対8.6という比になるという。計算の基礎を縄文時代後期の人口にしても結果はほぼ同じで推定渡来人数は約130万人、縄文直系人と渡来人との割合は。1対3.6ほどになるという。
第二の方法については
結果だけを紹介すると、近畿地方の古墳人は土着の縄文人直系の子孫一に対し渡来人系4の割合で混血したものと考えるのが、最も妥当だということになった。以上二つの方法によって、紀元前3世紀頃から紀元7世紀頃までの約1000年間に、数十万から100万人規模の渡来人がやってきたことが初めて検証された。年間平均では数百人から1000人規模の人たちが渡来してきたことになる

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【形質面から見ても、SNP主成分分析図のサンプルの強い密集状態から見ても、現代朝鮮人は、中国内の朝鮮族を含めて、恐らくは、人口1000万以上の民族集団に限定すれば、世界で最も均一性の高い民族集団と言っていい】
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時空のからくり
山田克哉

アインシュタイン方程式に関する解説

p181
計量テンソルには16個の成分がありますが、この対称性の為に、独立した計量テンソルの成分は事実上10個になります
【g12=g21という意味である】
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p183
「重力の全くないない場合」の計量テンソル
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p186
【球座標の場合。普通の平面であれば対角線は1のみになるはず】
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p187
重力場とは結局時空の間借りです。
即ち計量テンソルのguvの全ての成分が、4次元時空の各点の重力場の成分を表すことになります

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p210
4次元時空の曲がり具合は曲率で表され、質量、エネルギー、運動量の3つに依存することになる
式5-7の右辺は
エネルギー・運動量テンソルだ
左辺は
4次元時空の曲率になっている
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岩波講座日本通史 第1巻
日本列島と人類社会

埴原氏による記述が印象的ではあるが、現在では中村論文により、完全に否定されている

p16
7世紀末、「倭」に代えて「日本」を対外的な国号とし、「天皇」を王の呼称と定めた畿内を主な基盤とする「律令国家」は、それまで異質な地域と見なしていた「東国」ーー中部・関東を支配下に入れ、8世紀から9世紀初頭までに、東北、南九州を侵略・征服し、本州・四国・九州のほぼ全域を一応その制度の下に置いた

【岩波講座日本通史全25巻の冒頭を飾る網野義彦氏による上の簡明な記述は、極めて的確に日本の古代を要約している。】
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p92
上田正昭(1993)によると、渡来の波は弥生時代から7世紀頃まで約1000年にわたって続き、渡来人の中には権力者やその一族ばかりではなく、多くの一般民衆が含まれていたという

p93
その後、筆者(埴原)は
更に新しい事実を突き止めた。それは、渡来系弥生人が朝鮮半島の住民ばかりではなく、蒙古、中国東北部、東部シベリアなど北東アジア集団に極めて近い特徴を持つということである。これらの集団はいずれも極端な寒冷適応をとげ、他の地域とは著しく異なる特徴を持っている。従って渡来人の多くは、恐らく朝鮮半島を経由して日本にやってきたのであろうが、我々はその原郷を北東アジアに求めることができる。

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p95
人骨から見ると、古墳時代に渡来した集団も北東アジア系の特徴を持ち、その多くが西日本に住むようになったため、東日本・西日本の集団の差は世よい時代よりいっそう顕著になった
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p96
古墳時代は弥生時代に比べて渡来人の数が更に急増した時期と言える。筆者は弥生時代の開始である紀元前3世紀から7世紀までの1000年間にやってきた渡来人の数を推定した。

7世紀末までに渡来人の人口は日本人全体の70%~90%に達し、特にその割合は近畿を中心とする西日本に高かったと思われる。そうするとこの1000年間に数十万から100万人以上が渡来したことになり、渡来人の総数は想像以上に多かったということになる。山口はこの研究を批判し、渡来人の数は筆者の推定より格段に少なかったとした。山口によると、植民地時代の植民地住民の人口増加率は0.5%だから、この値を用いると渡来人の数は著しく少なく計算されるという

これに対して筆者が使った人口増加率は
初期農耕民の0.2%、岡崎による8~16世紀日本の0.1%などの値を参考にしたもので、その信頼性はかなり高いものと思われる

また尾本恵市は現代日本人には80%ほどの割合で北東アジア系の遺伝子が含まれるとし、鈴木隆雄の古病理学的研究では古代日本における結核の感染率と人口増加の割合から見て、多数のたらい人を考えざるを得ないという
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p103
注目すべき点は、東西の差の境界が中部地方に集中しており、また大多数の特徴において、西日本から東日本にかけての勾配(斬新的変化)が見られることである

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頭蓋骨計測値にも西日本から東日本にかけての明瞭な勾配が見られる

【二重構造モデルの提唱者による最もよくまとまった一般向け内容である。人類学的に日本人を分析すれば、日本人の起源は北東アジアとなる。しかし、遺憾ながら、水田耕作は弥生時代には北東アジアでは行われていない。その北限は、中国大陸の現在の山東省の南にある淮河附近であったであろう。

下の図は池端宏氏の「稲作の起源」に掲載された中国の新石器時代の稲作遺跡であるが、淮河の南に新石器時代の遺跡が既にあることから、BC1000年頃淮河流域で水田耕作を行っていた人々が、殷から周への王朝交代に伴う混乱の影響を受け、かなりの規模(数千人)で山東半島から遼東半島へ渡り、米作の適地を求めて朝鮮半島を南下し、その南端=現在の全羅道に至り、理由不明であるが、その一部又は大部分の人々が、さらに海を渡って南下して九州北部に稲作の適地を見つけ定住した後、人口が旧気に増大した。しかし、その後、遺伝的には異なる恐らくは中国東北部を原住地とする人々の流入が、埴原氏の言うように7世紀までかなりの規模で継続的に続いた。私は、このように考える

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弥生時代の初めは、現在では国立民族学博物館によりBC1000年頃とされ朝鮮半島での稲作開始とほぼ同じ時期である。重要なのは、種もみを持参して、明らかに移住目的で。遺跡の状況からみて水田稲作に慣れた人々が恐らくは朝鮮半島から集団でやってきた点である。その人々が、寒冷地適応した人類学的形質を有していたとは考えにくい


p120
約1万2000年前の縄文時代に入ると
人口は最高30万人程度にまで増大した。しかし、約6000年前ごろに始まる気温の低下によって、人口規模は減少し

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1600年頃の日本の総人口を推定してみよう
この石高・人口比率を太閤検地の全国集計1800万石にかけると全国人口は、518万ないし814万という数字が求められる。




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