2021年09月

岩波講座日本通史古代1

人口に関する記述が、不正確である。

p18
弥生時代の急速な人口増加に現れている。100年間の人口上昇率が二倍を超えるのは近代の産業革命以後を除くと、前近代では弥生時代のみであることは、そのことを具体的に示している

p19
【図5の解説として】
弥生時代の200年間(BC200ーAD1)に3倍近い人口増加をもたらしたのは水田耕作がはじめられたからである

【人口データの出所は、the dictionary of world population, penguin,London】

p41
4世紀
文字資料が石上神宮の七支刀と高句麗の広開土王碑以外にほとんど皆無に近いという史料的状況が、この時代の研究を大きく阻害している

p43
魏志の弁辰伝には、弁辰で採掘される鉄を倭人が交易によって輸入していたことも伝えられている。

p46
このように宋と倭の冊封関係は朝鮮半島の鉄生産に依拠する我が百済と高句麗の対立に組み込まれ

p47
中国の冊封関係下に倭=日本の国王が組み込まれたのは、後世の足利義満の例を除くとこの五世紀の倭の五王のみである

p49
前方後円墳という型式の墳墓が営まれたのは4世紀初頭から7世紀初頭にかけてのおよそ300年間のことである

p59
三国志記の記述ではあるが、5世紀に数多くみられる倭の侵攻の記事が6世紀には姿を消してしまうことも、倭の活動縮小を示すものではないだろうか

p64
朝鮮半島では532年永らく倭の軍事拠点ともなってきた任那が続いて562年に大伽耶が新羅に併呑され、
大きかったのは新羅の台頭である

p85
日本書紀に描かれている新羅は実に不思議な国である
その出発点から悪のイメージがまとわりついていた
ほぼ新羅悪者観で一貫している

p104
朝鮮3国の動乱の中で、危機的状況から脱却するために唐の救援を求めるあまり、新羅は独自の衣冠を中国制に改め、長年使用してきた独自の年号も廃止して、

p125
縄文時代の人口については
早期には約二万人だったが、4500年前には30万人近くにまで増えた。ところが、その後は10万人以下にまで減少する。分布は東日本と西日本に大きく分かれ、最盛期には東日本に95%をこえる人口が集中するという偏った分布を示す。分布は東日本の落葉性広葉樹林と西日本の照葉樹林という基本植生とほぼ一致している

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p275
平安時代の初頭に編まれた「新選姓氏録」によると平安京と五畿内の1059の氏のうち渡来系譜をもつ氏は324氏でほぼ3割を占めている
【これが九州北部よりも近畿地方が韓国人に遺伝的に近い原因と断定していい。即ち、弥生時代ではなく、古墳時代に朝鮮半島の混乱に伴い多数の半島人が日本に移り住んだことにより、現代日本の他地域とは異なる商都大阪の特性が形成されたとみていい】

稲作の起源
池橋宏


①BC1000年頃、殷滅亡の混乱時に、一部の(遺伝的な意味での)中国人が山東半島→海を渡り遼東半島(途中に島があり、50km程度即ち対馬と朝鮮半島程度の距離)→朝鮮半島には数世代定住することなく対馬海峡を渡り九州北部へ=弥生時代の幕開け。恐らくは、現在のCHS=南方系中国人でしかあり得ない。朝鮮半島には数世代定住することがなかったのは、ほぼ確実に一時的な気候の寒冷化であろう。海を渡りより温暖な地を求めざるをえなかった。1万人規模のSNP分析論文で九州北部各県のSNP分析では、韓国人に近くはない。一番近いのは近畿圏である。従って、弥生人は朝鮮半島人ではあり得ない
②その後、断続的に8世紀ごろまで、対馬の対岸の朝鮮半島から、現在の韓国人とは遺伝的にはかなり異なる半島人が、日本へ移住又は避難。現代韓国人のDNAは、ほぼ新羅人と同じと見ていい。新羅が
遺伝的に異なる高句麗人(ツングース系=後の女真族)、百済人、倭人(伽耶に相当数居住していたはず)を朝鮮半島から追い出し、現在の日本人よりも均一性の高いDNAが形成されたとみて間違いない。韓国人のSNPの主成分分析図は非常にきつい蜜集状態であり、日本人よりも密集している。人口1000万以上に限定すれば恐らくは、世界で最も均一性の高いDNA集団である。
③最終的に奈良時代に蝦夷との交雑を経て現代日本人のDNA形成。日本人のDNAの形成は奈良時代末又は平安時代初頭と考えてほぼ間違いない。
④現代日本人DNA形成決め手になったのは、9世紀の新羅との完全な断交である。これがなければ、日本史は完全に異なった展開を見せたであろう


p128
歴史上の記録からは、龍山文化の栄えた山東を中心に紀元前1000年頃は身長の低い人を意味する夷という民族がいて、殷に対抗しているうちに殷は西方から来た周に滅ぼされた(紀元前1027年頃)


p131
考古学的証拠から栽培稲の長江起源説は決定的である

p199
越は楚によって紀元前334年に滅ぼされた
本拠地から逃れて
百越と言われる
南越国(今の広東)
越南(ベトナム)

p203
稲作の伝来に関して最も興味を持たれるのは日本への伝来ルートである。
経路としては江南から直接渡来する可能性は極めて低い。既に春秋時代末から山東半島には越の拠点があった
答えとして「江南で発展した稲作と漁撈」が伝来したと言わざるを得ない

p224
越で発達した水田稲作が漁撈を伴う効率の高いものであり、それが朝鮮半島南部を経由して九州に伝来して弥生時代の幕を開け





旧約聖書に、イエスの出現を預言している記述があることに驚いた

P90
ヘブライ語のトーラーという言葉を律法と訳してしまうと、啓示・命令という本来の意味がひどく損なわれてしまう

p109
イエスの方も最も親しい弟子達、第一の従者であり、イスラエルの12部族を象徴する12人の弟子たちを呼び集めた。

p117~p118
イエスが辱めを受けて苦しんだことは、イエスが詐欺師だった証拠ではなかったのだ
旧約聖書
同様に受難に苦しんだ預言者エレミアの悲壮な姿の中に、後にイエスが受けることになる苦しみがほとんど包み隠されることなく予告されていることに人々は気づき始めた。矛盾はなかったのだ。まさに神の言葉がイエスの受難と死において成就した

p138
マタイ福音書は紀元0年代パレスチナ北部でギリシャ語で書かれた。著者はキリスト教に帰依したユダヤ人である

マルコ福音書は65~70年異邦人向きに多分ローマで書かれた

ルカ福音書は紀元70~80年頃
非ユダヤ人三向けて書かれた。達者なギリシャ語で他の福音書よりも豊富な語彙を駆使して描かれている

ヨハネ福音書は1世紀の末頃小アジア恐らくはエファソで書かれた
ヨハネに愛着を持った共同体から生まれたこの福音書は明らかに相次ぐ推敲を受けている

p141
外典福音書
外典(アポクリファ)と呼ばれる福音書もある
アポクリファは20ほどある。エビオン人福音書、エジプト人福音書、アラブ人福音書、アルメニア人福音書、ヤコブ原福音書、大工ヨセフの物語、ユダ福音書
【以降省略】



キリスト教が、ユダヤ教の最終的な到達点?この解釈が、正解かもしれない
p31
「キリスト」(これはヘブライ語の救世主メシアのギリシャ語訳)

p40
ペテロ・ヤコブ・ヨハネらは同じユダヤ人との対立を極力回避しようとした。彼らはイエスへの信仰は、ユダヤ教の最終的な到達点だとする立場をとった

p51
30年代に入ると原始キリスト教教団に続々とユダヤ人以外の信者が流入し始めた

p57
キリスト自身、奴隷の為の刑罰である十字架刑を受けているのである

p67
マルコによる福音書が書き上げられたのは68年頃、場所はローマであったと思われる。他の3篇の福音書は、80年から100年の間に書かれた

p129
391年から392年にかけてテオドシウス1世(在位379~395)が国単位、個人単位双方で全ての異教崇拝の禁止令を出す。こうして、事実上キリスト教がローマ帝国の国教として認められるようになったのである

【新約バイブルが書かれた300年後の4世紀末に、ローマ帝国の国教となった点が興味深い】




中国正史 倭人・倭国伝全釈
鳥越健三郎

越人が、倭人の同音異義語!であることに驚いた。中国正史の記述では、日本人の起源は、やはり長江流域から山東半島としか思えない。

p13
それは誤解されたもので、「倭人」「倭国」という名称の起こりは、日本人・日本国に限られたものではなかった。黄河流域に発症した漢族が優越感から、長江流域を原住地として各地に移動分布した他民族を総括して命名した卑称であった。

p20
越人が倭人であったことを示し、また越王は入れ墨をしていた
越人の本拠地は浙江省紹興市の地であった。彼らは春秋時代末に呉を滅ぼし、
戦国時代末に呉に討たれて滅び、大挙して南方に向けて亡命した


p26
後漢書(巻90)列伝・鮮卑の条に倭人がみえる。

2021-09-24

右の文にある倭人も日本人と見る規定観念にとらわれて意味が通ぜず、誤伝として無視されてきた

【上はいつも使う中国正史の検索サイトの画面コピーであり、確かに倭人に関し
倭人 善網捕,於是東擊 倭人 國,得千餘家,徙置秦水上,令捕魚以助糧食。
とあり、倭人と明記している。中国正史で異なる意味で倭人が書かれているのはこの箇所のみであり、2回も倭人としていることから誤植はないであろう。解釈不可である?】



p30
「山海経」にみえる東夷としての倭族

蓋国は鋸燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す

蓋国は
山東省のほぼ中央
小国で戦国時代には山東半島北部を領していた斉に属していた

再三述べるように倭人を日本列島の日本人に限定して考えていた立場からは、もちろん右の記事は不可解なものとされ。これまで打ち捨てられてきた。

【山海経は世界最古の地理誌であるが、その内容の神話や伝説に基づく記述であることを著者は触れてはいない。従って、無視するのが正しい】


p31
1973年長江下流域の
河姆渡遺跡で今から7000年前に遡る倭族の高床式住居と稲作文化があったことが判明した。さらに倭族たちは長江を渡り山東半島に向けて北上した
彼らは東夷と称されたが

p49
浙江省は越人の本拠地で、楚に敗れて福建・広東・ベトナムに南下亡命した。その「越人」が「倭人」の同音異義語であることは序説で詳述した

【以降は、中国正史の倭人に関する記述の原文・読み下し文・内容解説があり、著者によれば中国正史について倭人に関する記述を全て網羅した初の書籍とのこと。】


香川県高松市高松茶臼山古墳出土 古墳前期人骨のDNA分析
調査研究活動報告
篠田謙一・神澤秀明・安達 登・角田恒雄 
国立歴史民俗博物館研究報告 第 219 集 2020 年 3 月

古墳時代の支配層の頂点に立つ者の母系祖先が縄文人である可能性が高い

香川県高松市にある高松茶臼山古墳は,古墳時代前期の讃岐における最大規模の前方後円墳であ る [清家他 2020,Ⅱ− 1. 参照]。

本古墳は,その規模から讃岐の盟主的古墳であ ると理解されており,

高松茶臼山古墳の人骨のミトコンドリアゲノムの分析を行い,埋葬人骨の系統と血縁関係に ついての解析を試みた。

【分析対象となったのは、2体の人骨の側頭骨であり、茶臼山1、3となずけられている】

茶臼山 3 はハプログループの D4m1 に細分された(表 2)。個体特異的変異は認められなかった。茶臼山 1 はハプログループ M7a2 の可能性が示されたが,取得できたデータが限られており,相対的に DNA 汚染の影響も大 きいことから,結果は暫定的である。

茶臼山 1 が確実に M7a2 かを判断することは難しい。以上の特徴から,茶臼山 3 から得られた結果は古代人に由来すると判断したが,茶臼山 1 の結果は DNA 汚染に影響されている可 能性があり,暫定的なものであるとした。なお,茶臼山 3 の DNA の汚染率は 3.13 ~ 4.55 % と推 定された(表 1)


茶臼山 3 にみられるミトコンドリア DNA ハプログループ D4m1 は,現在の日本列島人に低頻度 であるが存在しており[0.3 %,Sekiguchi et al., 2008],姉妹系統の D4m2 は北東アジアを中心に観 察される(http://www.phylotree.org)。また,縄文時代人からはこれまでのところ D4m は検出され ていないことから,茶臼山 3 の D4m1 は弥生時代以降の渡来系集団に由来すると考えられる。

現 代の日本列島人は,基層集団である縄文系集団と渡来系集団が弥生時代以降,日本列島内で混合し て成立したと考えられている[Hanihara, 1991]。最近では,弥生時代人の核ゲノム解析による遺伝 学的手法からも両系統の混血が明らかにされている[例えば,篠田他, 2020a]。今回,讃岐において 古墳時代前期では最大級の高松茶臼山古墳で渡来系由来の D4m1 が検出されたことは,混血後の 集団が広く波及している可能性を改めて浮き彫りにした。一方の茶臼山 1 は,暫定的ではあるがハプログループ M7a2 に分類された。

M7a2 を含む M7a は縄文時代人の主要なハプログループのひ とつであり[Adachi et al., 2011],「縄文人的遺伝子型」とされる[Adachi et al., 2009]。現代日本人 でも本土で 7.5%,沖縄本島で 26 % の頻度で観察される[Tanaka et al., 2004]。このことから,茶臼 山 1 は母系系統で縄文系である可能性がある。これは,茶臼山 1 と 3 の母系の出自が大きく異なっ ている可能性を示している。ただし,茶臼山 1 のデータは信頼性に乏しいことから,今後は追加分 析を行うなどして,茶臼山 1 からもより信頼性の高い結果を得る努力を続ける必要がある。

Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations
NIALL P. COOKE 他
17 Sep 2021

水準の高い集団遺伝学論文であるが、次の2点が致命的な欠点である。日本人起源に関する(集団遺伝学の)学術論文としては、完全失格に近い程の致命的な欠点であり、この論文を報じたマスコミ関係者の知識の浅はかさが良く分かる。データのみ頂戴するが、縄文人については正しい内容である。この論文の真価は縄文人DNA分析ににある。

①弥生人としているが、人類学者が西北九州型弥生人と呼ぶ、頭蓋骨の形状では縄文人に分類される弥生人2体のみを対象にしている。この論文のミトコンドリアDNA分析では、サンプル2体のうち女性は、南方系縄文人のM7、男性は、D4で弥生系。男性のY染色体ハプログループはOで弥生系、とのことである。西北九州型弥生人のDNAを分析すると、縄文人に非常に近いのは当たり前だ!。西北九州型弥生人は、絶対に通常の弥生人ではない。頭蓋骨の形状が縄文人、mDNAハプログループは、逆に弥生人のパターンだ。通常の弥生人を対象に分析した場合、現代日本人とほぼ同じという奇妙な結果すら既に出ている。この難問を誰か解いて欲しい。

下の主成分図は、鳥取の青谷遺跡の弥生人分析結果(国立歴史民俗博物館研究報告 第 219 集 2020 年 3 月)だ。ほぼ現代日本人の範囲に収まる。歯の内部から、取り出して分析しているので、コンタミの可能性は少なく、比較的ばらけているので、手慣れた民博チームの分析の間違いでないことは絶対100%確実。東へ進んで、蝦夷と交雑したのであれば、現代日本人はもっと縄文人に近いはずだ?しかし、現代の東北人ですらそうではない。

2021-05-28 (1)

②東北以北の蝦夷の存在は、歴史上の記録からも明らかであり、かつ、7000名超の現代日本人のSNP分析でもハッキリと東北地方と近畿地方の差が確認しうる。従って、両者は奈良時代に明らかに交雑している。(近畿は明らかに百済滅亡の影響を受けており、東北は蝦夷との交雑が完全に確認できる。)歴史学者によれば帰属した蝦夷に大和朝廷が姓を与えた記録まである。遺伝学方面では「交雑する人類」の著者であるライヒ氏もわざわざ言及しているほどだ。斎藤教授も、素人向けの複数の著書で何回も言及しておられる。即ち、私のような素人でも誰でも知っている。

にもかかわらず、この論文は完全に無視している。先行研究の事実上の選択的な無視もここまでくると異様である。

サイエンスと同じ協会が発行するオープンアクセスの総合科学誌(science advances)掲載であるが、論文掲載料が日本円で1ドル100円換算でも50万以上するのには驚いた。新聞やウェブ上のニュースで大きく報じられたが、著者連中は少なくとも②を知っているはずだが?


Here, we report 12 newly sequenced ancient Japanese genomes spanning 8000 years of the archipelagos pre- and protohistory (Fig. 1 and Table 1).


2021-09-19

Fig. 1

.Sampling locations, dates, and genome coverage of ancient Japanese individuals.
(A) Archaeological sites are marked with circles for individual genomes newly sequenced in this study and triangles if previously reported (see Table 1 and table S1). The colors represent three different periods of Japanese pre- and protohistory: Jomon, Yayoi, and Kofun. (B) Each individual is plotted with whole-genome coverage on the x axis and median age (years before present) on the y axis. The nine Jomon individuals are split into five different subperiods on the basis of their ages (see note S1): Initial (JpKa6904), Early (JpOd274, JpOd6, JpOd282, JpOd181, and JpFu1), Middle (JpKo2), Late (JpKo13, JpHi01, F23, and F5), and Final (IK002).

 

We also include five published prehistoric Japanese genomes in our analysis: three Jomon individuals (F5 and F23 from the Late Jomon period and IK002 from the Final Jomon period) (1214),

 

Our initial screening focused on 14 ancient skeletal remains excavated from six archaeological sites across the archipelago (see note S1).

 

High levels of endogenous human DNA were preserved in 12 of these samples (Table 1),

 

Nine of the 12 samples are associated with the Jomon culture, representing the west and central parts of the archipelago and four different stages of the Jomon period (Initial, Early, Middle, and Late Jomon) (Fig. 1).

 

We explored the genetic diversity within our time series data by looking at the shared genetic drift between all pairwise comparisons of individuals from both the ancient and modern (SGDP) Japanese populations using the statistic f3(Individual_1, Individual_2; Mbuti) (Fig. 2A).

 

Our results very clearly define three distinct clusters of Jomon, Yayoi, and Kofun individuals, the last of whom group with the modern Japanese individuals, suggesting that cultural shifts were accompanied by genomic changes.

 

Despite the large spatial and temporal variation in the Jomon dataset, extremely high levels of shared drift are observed between all 12 individuals. The Yayoi individuals are most closely related to each other and also have a higher affinity to the Jomon than to the Kofun individuals.

 

The Kofun and modern Japanese individuals are almost indistinguishable from one another by this metric, implying some level of genetic continuity over the past 1400 years.

 

We further investigated the genome-wide autosomal affinities of our ancient Japanese individuals to continental populations using principal components analysis (PCA).


2021-09-19 (1)

 

Fig. 2. Genetic diversity through time in Japan.
(A) A heatmap of pairwise outgroup f3 statistic comparisons between all ancient and modern Japanese individuals.(A)は、省略した
(B) Principal components analysis (PCA) visualizing ancient Japanese individuals (i.e., Jomon, Yayoi, and Kofun) and continental ancient individuals (presented as colored symbols) projected onto 112 present-day East Eurasians (gray circles with Japanese highlighted in dark green).


We projected ancient individuals onto the genetic variation of present-day populations in the SGDP dataset from South and Central Asia, Southeast and East Asia, and Siberia (Fig. 2B and fig. S4).

 

All Jomon individuals form a tight cluster, falling apart from other ancient populations, as well as present-day Southeast and East Asians, suggesting a sustained geographic isolation.

 

The two Yayoi individuals appear near to this Jomon cluster, supporting genetic and morphological similarity to Jomon as reported in (15, 16).

 

The three individuals from the Kofun period fall within the diversity of the Yellow River cluster.

 

ADMIXTURE analysis with the Human Origins Array dataset also supports the increase in continental gene flow into the archipelago after the end of the Jomon period (Fig. 2C and figs. S5 and S6).

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Fig. 2. Genetic diversity through time in Japan.
(A) A heatmap of pairwise outgroup f3 statistic comparisons between all ancient and modern Japanese individuals.(A)は、省略した
(B) Principal components analysis (PCA) visualizing ancient Japanese individuals (i.e., Jomon, Yayoi, and Kofun) and continental ancient individuals (presented as colored symbols) projected onto 112 present-day East Eurasians (gray circles with Japanese highlighted in dark green).
(C) Selected individuals from an ADMIXTURE analysis (K = 11; complete pictures from K = 2 to K = 12 are presented in figs. S5 and S6), showing a distinct Jomon ancestral component (represented by red), a component common in ancient samples from the Baikal region and the Amur River basin (represented by light blue) and a broad East Asian component (represented by yellow). A gray component that is most dominant in the Central Steppe is absent in the ancient and modern Japanese samples. The middle and bottom rows show selected Ancient East Eurasian populations from each geographical regions: Southern China (from left to right: Liangdao1, Liangdao2, and Xitoucun), Yellow River (YR) (Middle Neolithic, YR_MN; Late Neolithic, YR_LN; Late Neolithic, Upper_YR_LN; Late Bronze Age/Iron Age, YR_LBIA; and Iron Age, Upper_YR_IA), Northern China (Yumin, Bianbian, Boshan, and Xiaogao), West Liao River (WLR) (Middle Neolithic, WLR_MN; Late Neolithic, WLR_LN; Bronze Age, WLR_BA; Middle Neolithic individual from Haminmangha, HMMH_MN; and Bronze Age individual with a different genetic background from WLR_BA and WLR_BA_o), Amur River (AR) (Early Neolithic, AR_EN; and Iron Age, AR_IA and AR_Xianbei_IA), Baikal (Early Neolithic, Shamanka_EN and Lokomotiv_EN), and Central Steppe (Botai, CentralSteppe_EMBA, and Okunevo_EMBA).


 2021-09-19 (4)

The Jomon have a distinct ancestral component (represented in red in Fig. 2C), which is also visible at high levels in the Yayoi and remains at reduced levels in the Kofun and Japanese.

 

New ancestral components appear in the Yayoi, at proportions similar to the profile seen in the Amur River basin and surrounding regions. These include a larger component that is dominant in Northeast Asians (represented by light blue) and another smaller component that represents much broader East Asian ancestry (represented by yellow). This East Asian component becomes dominant in the Kofun period and the modern Japanese population.

 

This pattern, coupled with strong shared genetic drift among the Jomon individuals (fig. S9), implies that the Jomon population underwent a severe population bottleneck. With a search of parameter space of population size and split time, our estimates place the appearance of the Jomon lineage between 15 and 20 ka ago, followed by the maintenance of a very small population size of ~1000 until at least the Initial Jomon period (Fig. 3C and figs. S10 and S11). This coincides with rising sea levels and the severing of the land bridge to the mainland at the end of the LGM (34, 35) and shortly precedes the first appearance of Jomon pottery in the archipelago (2).

 

We then asked whether the Jomon had any contact with continental Upper Paleolithic people after the divergence of their lineage, but before their isolation in the archipelago,

 

We lastly investigated potential temporal and spatial variation within the Jomon population. Three temporal groups, defined by the Initial, Early, and Middle-Late-Final stages of the Jomon period, show similar levels of shared genetic drift with ancient and present-day continental populations,

Genetic ancestry of migrants during the Kofun period

Historical records provide strong support for continued population movement from the continent to the archipelago during the Kofun period (1). 

To identify additional ancestral groups that contributed to the genetic makeup of the Kofun individuals, we tested genetic affinity between the Kofun and each of the continental populations using f4(Mbuti, X; Yayoi, Kofun) (Fig. 5A and fig. S18). We find that most of the ancient or modern populations in our dataset are significantly closer to the Kofun than they are to the Yayoi. This finding implies additional migration to the archipelago during the six centuries that separates the genomes from these two periods.
【日本の歴史上、古墳時代にも大陸からの遺伝的流入があったことは確実であるが、著者らの主張通りであれば、その数は少なくとも1万人以上である必要がある】
This Yellow River population has an intermediate genetic profile with approximately 40% Northeast Asian and 60% East Asian (i.e., Han) ancestry, as estimated by qpAdm.

This is an intermediate genetic profile that fits both Yayoi and Kofun in certain models, with an input of 37.4 ± 1.9% and 87.5 ± 0.8% in these populations (table S14). These results imply that continuous gene flow from a single source may be sufficient to explain the genetic changes between the Yayoi and Kofun.

First, the ratios of Northeast Asian to East Asian ancestry identified in ADMIXTURE were starkly different between the Yayoi (1.9:1) and the Kofun (1:2.5) (Fig. 2C).
 Second, this contrast in continental affinity is also observable in the different forms of f statistics, in which there is a repeated pattern of Yayoi having significant affinity to those with Northeast Asian ancestry (Fig. 4A and fig. S16), while the Kofun individuals form a tight cluster with other East Asians including Han and ancient Yellow River populations (Fig. 5A and figs. S17 and S18).

【著者らの主張通りであれば、古墳時代に大陸から1万人規模の移住=征服が繰り返され、江波氏主張のように、いわば征服王朝が日本列島で成立し、古墳時代が到来したことになる。しかし、いわゆる空白の4世紀を除いて、中国正史には、そのような記述は一切ない。】

Last, we find support for a two-pulse model from our dating of the admixture in the Kofun individuals by DATES (fig. S20) (45). A single admixture event with the intermediate population (i.e., YR_LBIA) is estimated to have occurred 1840 ± 213 years before the present (B.P.), which is much later than the onset of the Yayoi period (~3 ka ago). 


2021-09-21
Fig. 6. Genomic transitions in parallel with cultural transitions in pre- and protohistoric Japan. The Jomon had a very unique genetic profile due to strong genetic drift and a long-term isolation in the Japanese archipelago. The rice cultivation was brought by the people who had Northeast Asian ancestry (represented by WLR_BA_o and HMMH_MN) in the Yayoi period. An additional wave of migration brought widespread East Asian ancestry (represented by Han) to the archipelago in the Kofun period. Since then, this tripartite ancestry structure has been maintained in the archipelago and become the genetic foundation of modern Japanese.

【著者らの主張は、この図6に尽きる。しかし、致命的欠点であるのは著者らがこの論文で言う弥生人が西北九州型弥生人であることが確実だという点である。ここ以降はバカらしいので読んでいない。確実であるのは、著者らの主張が正しのであれば、日本史を書き換えなければならない。現在は完全無視されている江波某氏の騎馬民族国家征服説(確か中公新書で本棚から探すのすらバカらしいのでやめとこう!)が大きく形を変えて復活するかもしれない?

歴史学者がこの論文の弥生人DNA分析の無意味さを知ることなく、江波氏の説を事実上は復活させる可能性が極めて大きいが、中国正史には、日本列島への侵攻など一切記述はないのだ!

しかし、中国正史には倭人と倭に関しては、いわゆる「空白の4世紀」が存在するので、本を出して話題となり金儲け目的?の歴史学者が空白の4世紀を利用して江波氏の説を形を変えて復活させることは確実であろう。

全エクソンシーケンス論文の日本人、主に白人、韓国人対象の別々の大規模サンプル論文のvariants分布の比較から見れば、日本人、白人に比べ、はるかに高いpurifing selectionの圧力下にあり、明らかにMAF分布が他民族と異なり、比喩としては完全なDNA異常集団と断定せざるを得ない韓国人というキチガイどもがしているのと同じことを日本人がしてほしくはない!その意味において重要論文である。

一橋大は、明らかに一部の連中が北朝鮮・朝鮮総連の強い影響下にあることは絶対に確実だが、金沢大はそんなことないはずだ?しかし、先行研究の選択的無視は絶対におかしいし、キチガイどもがFDA論文をわざと無視するのと同じである】

古墳時代の渡来人ーー--西日本-ーー
亀田 修一【岡山理科大学教授】

亀田氏による西日本の古墳時代の遺跡から見た渡来人に関するまとめであり、参考になる
「渡来人の本格的な移住は 5 世紀に入る頃からである。5 世紀の渡来人関係の遺構や遺物は各地で急激に増加する。」と明言されている点が特に注目される

①九州北部でもオンドル遺跡があることから渡来は確実であるが、現代日本人の1万人規模のSNP分析では、九州北部各県は、近畿各県よりも、現代韓国人と離れていることは確実なので、DNAから見ればその影響はほぼない。従って、古墳時代の九州への渡来人定住は少数であったと言わざるを得ない

②吉備=現在の岡山県については、現代日本人の1万人規模のSNP分析論文データを調べてみるが、司馬遼太郎さんが、随筆で明治時代に軍人の間では岡山県民であることを隠さざるをえなかったと書いておられ、DNAから見ればその影響は甚大であったと思われる。戦国時代に宇喜田直家は合戦で戦国大名となったのではなく謀略と暗殺のみで大名となったことを司馬さんは、播磨灘物語などで活写している。恐らくは、確実に、渡来人DNAの影響と考えてよい

③近畿地方については、現代日本人の1万人規模及び7000人規模の二つのSNP分析論文からみて明らかに現代韓国人に最も近い。キチガイどもに最も近いDNAを有しているのは、関西人であり、疑問の余地は100%ない。関西人の気質は、韓国人によく似ている。しかし、この論説では関西の遺跡の状況をあまり詳しくは書いていない。注目されるのは、オンドル遺跡がない点である。

④古墳時代末期には、概ね現代日本人のDNAが形成され、その後に蝦夷との交雑を経て東北・関東北部ではDNAの変化が生じ、8世紀頃に完全に現代日本人のDNAが完成し、9世紀に新羅との断交を経て、1910年に至るまで日本人DNAは維持されてきた。この大筋で間違いない。

結果を示すデータや西欧人の日本人及び中国人に対する見方(人にもよるが、8割程度は好意的記述)と朝鮮人に対する見方(ほぼ100%近くひどい酷評ばかり。例外はあるが)の極度の差から見て、朝鮮人DNAの異様性は疑う余地は全くなく、かつ、3つの遺伝学論文から見てもそのことを確認しうる。司馬さんが小説で書いた宇喜田直家が、陰謀と暗殺のみで戦国大名となったことが何よりも彼らのDNAを象徴している。宇喜田直家の遺骨からDNA抽出すれば、現代韓国人とほぼ同じであろう。確かに、子の宇喜多秀家は全く異なるタイプであった。しかし、宇喜多秀家の家臣たちはどうしようもない連中だったようだ。これも司馬さんが書いている、随筆だったか?
今、日本人は元寇以来のDNAの危機を迎えようとしている。今後40年以内に確実に北朝鮮は崩壊し、韓国は異常な出生率の低下からほぼ同じ時期に外資の逃避により極度の経済的混乱に陥る。邪悪な遺伝子は、宿主を変えてでも生き延びようとする。


2.北部九州地域

⑴ 福岡平野地域(花田 2002、亀田 2004b、重藤ほか 2005、武末 2013 など)  福岡市西新町遺跡は、砂丘上に営まれた集落遺跡で、3、4 世紀の竪穴住居が約 500 棟(カマ ド住居・オンドル住居を含む)、多数の朝鮮半島系土器が確認され、加耶地域や百済・全羅道地 域からの渡来人の存在が推測されている。
また、近畿、吉備、山陰などと関わる土師器なども出 土しており、当時の日本列島と朝鮮半島の交流の拠点として注目されている。

この集落の墓地は 西に近接する藤崎遺跡であるが、朝鮮半島系資料は極めて少なく、朝鮮半島系の埋葬施設も確認 されていない。現時点では西新町遺跡で暮らした渡来人たちがこの周辺に葬られたのか、それと も故郷に戻って埋葬されたのか、わからない。

 西新町遺跡は 4 世紀代に終焉を迎え、それ以後の様子はわかっていないが、この付近で 5 世紀 代の朝鮮半島系資料を多く出土する遺跡は南西約 6km の吉武遺跡群である。住居などの遺構は よくわからないが、加耶系、全羅道系、新羅系の軟質土器・陶質土器、算盤玉形紡錘車などがまとまって出土している。

隣接する 5 世紀前半~ 6 世紀末の吉武古墳群においても加耶系を中心と する陶質土器や鋳造鉄斧、鉄鐸、鉄滓などが出土し、この周辺地域での渡来人・その子孫たちに よる鉄器生産などの可能性が推測されている。吉武遺跡群の東約 3km にも 5 世紀中葉~ 6 世紀 後半の鍛冶関係遺物・朝鮮半島系土器を出土するクエゾノ古墳群、梅林古墳、梅林遺跡などが ある。

⑵ 朝倉地域(吉武・松尾 1999、宮田 2002、桃﨑 2012、小嶋 2013、筑前町教育委員会 2017 など)
 筑前南部に位置する朝倉地域を代表する渡来人関連遺跡としては、池の上・古寺墳墓群があげ られる。石蓋土坑墓をおもな内部主体とし、5 世紀代の墓が約 80 基確認され、非陶邑系須恵器(加 耶西部系)、算盤玉形紡錘車、初期の鍛冶具や馬具などの副葬品、初期の棺内土器副葬などによっ て渡来人の墓を含む墳墓群として注目されてきた。

このほか、南東約 6km に殉葬馬土坑が検出された本郷野開遺跡(5 世紀後半)、漢城百済時代 の高杯などが出土した西森田遺跡(5 世紀後半)などがあり、いくつかのグループの渡来人集団 が存在していたことが推測される。

⑶ 宗像地域(重藤 2011、亀田 2013・2017 など)
宗像地域において渡来人たちの存在が明確になる 5 世紀代の宗像の大首長の墓は海岸部の津屋 崎地域にある。内陸部の釣川流域ではオンドル住居が確認されている光岡六助遺跡(5 世紀中頃) や鍛冶具を出土している朝町山ノ口古墳群(6 世紀末~ 7 世紀代)、初期カマド住居や多くの多 様な軟質系土器(5 世紀前半~ 6 世紀代)を出土した冨地原地域の遺跡群において渡来人たちが 関わっていたものと推測される。

海岸部の津屋崎地域では、オンドル住居・排水溝付四柱式方形竪穴住居が確認されている奴山 伏原遺跡(5 ~ 6 世紀)は新原・奴山古墳群に近接し、鳥足文タタキを有する移動式カマドを出 土した生家釘ヶ裏遺跡(5 ~ 6 世紀)も新原・奴山古墳群の南約 500m であり、墳長 73m の生家 大塚古墳がすぐ西側に位置する。

そしてオンドル住居、多様な軟質系土器・陶質土器を出土する 在自下ノ原遺跡などの在自遺跡群(4 世紀後半~ 6 世紀後半)のすぐ北側には 5 世紀後半頃から 6 世紀後半頃までの須多田古墳群が存在する。この在自遺跡群の入り海を挟んだ南西約 500m に はかつて「唐坊地」という地名があり、この「唐坊」は寛喜 3(1231)年までに成立したとされ る宗像宮 75 末社の「唐坊」八幡宮と関連すると考えられている。まさに唐人、中国の人たちが 住んでいた街と考えられている場所で、古墳時代前期から対外交流などにおいて継続的に使用さ れたと推測される在自遺跡群同様、海と関わる場所であったと推測される。

 福間内陸部地域においても、5 世紀代のオンドル住居が検出された津丸西ノ後遺跡や津丸南天 神遺跡、割畑遺跡、11 枚の鉄鋌を副葬した割畑 1 号墳(径 10m)、5 世紀前半の短甲などを出土 した直径 26m の宮司井手ノ上古墳、時期は下がるが、7 世紀の首長墳と考えられている手光波 切不動古墳などが比較的近い。その後、この地域には 8 世紀の宗像地域の官衙や寺院がまとまっ てくる。この地域は、交通路としての機能を持つ西郷川流域とのちの西海道大宰府道など内陸部 の道との関わりが推測できる地域のようである。

宗像地域では 5 世紀代だけでなく、6 世紀代の朝鮮半島系資料が比較的多く見られる。6 世紀 に入ると、日本列島の人々も朝鮮半島系のカマド・甑を使う煮炊き文化を受け入れ、鍛冶技術も 飛躍することなどから朝鮮半島の人々の生活・道具などとの区別がつきにくくなる。その中にあって多くの 6 世紀代の朝鮮半島系資料が見られるということは、新たな渡来人の存在を考えざるを 得ない。その多くが往来かもしれないが、そのなかには移住・定着した人々もいたであろう。そ の波は 7 世紀にも継続していたものと推測される。

3.吉備地域(亀田 1997・2000・2004a、佐藤 2006 など)
5世紀の備中 5 世紀前半の吉備最大の前方後円墳である造山古墳(墳長 360m)と第 2 位の 作山古墳(墳長 286m)の周辺地域には多くの朝鮮半島系考古資料が見られ、具体的な渡来人の 姿が推測できる。

 鉄器生産に関わる窪木薬師遺跡(鉄鋌、釜山福泉洞 21・22 号墳出土鉄鏃と類似する鉄鏃、鉄滓、 砥石出土カマド住居、5 世紀初)・随庵古墳(鍛冶具一式、朝鮮半島系竪穴式石室、鎹使用割竹 形木棺、5 世紀前半)、須恵器生産に関わる奥ヶ谷窯跡(洛東江下流域系、5 世紀初)、海上交通 の管理に関わると推測される菅生小学校裏山遺跡(加耶、新羅、百済、全羅道系土器、5 世紀前半) などがある。

窪木薬師遺跡の東約 1.5km に位置する高塚遺跡では 5 世紀前半代のカマド住居が まとまって確認され、朝鮮半島系土器や鉄滓が出土し、窪木薬師遺跡で働く鉄器工人たちの生活 の場と推測される。窪木薬師遺跡の南約 800m の法蓮古墳群では高塚遺跡出土の吉備産初期須恵 器と類似するものが出土し、この古墳群が渡来人たちの墓地群であった可能性が推測される。こ れらの遺跡群は造山古墳を中心として半径約 5km 内に分布し、朝鮮半島系考古資料の多くは洛 東江下流域(加耶地域)と関わるものが多い。


6、7世紀の備中 
吉備地域では備中の 5 世紀前半の造山・作山古墳、備前の 5 世紀中葉の墳 長 206m の両宮山古墳のあと、大きな古墳は築かれなくなる。このような前方後円墳の突然の衰 退に関しては、5 世紀後半の雄略天皇代の吉備の反乱伝承が関わると考えられている。

つまり『日 本書紀』雄略天皇 7(463)年 8 月条に記された「吉備下道臣前津屋」の謀反・誅殺、同年是歳 条に記された「吉備上道臣田狭」の任地任那での反乱・失敗などである。

5 世紀代の吉備は(大和王権との関わりは当然無視できないが)、朝鮮半島と直接的に深く関 わり、渡来人たちの技術・情報・知識などによってこの地域を大いに発展させたが、5 世紀後半 の反乱以後は一時的に衰退し、6 世紀中葉の白猪・児島屯倉設置により、新たな渡来人を畿内か ら受け入れ、さらに展開したことが推測された。このような吉備備中地域と朝鮮半島との一連の 関わりが律令期の「賀夜郡」へとつながっていったものと考えられる。

4.畿内地域
⑴ 葛城の渡来人(奈良県立橿原考古学研究所 1996 ~ 2003、木下 2006、坂 2010、坂・青柳 2011、坂編 2016、青柳・丸山 2017 など)
 
渡来人関係の遺構・遺物としては、大壁建物、オンドル住居、慶尚南道・全羅道・忠清道系の 軟質系土器・陶質系土器、算盤玉形紡錘車、円筒形土製品など多くのものが検出されている。


 葛城氏に関しては、『日本書紀』に允恭天皇・雄略天皇の代に反乱を起こし、衰退したことが 記されている。南郷遺跡群も 5 世紀中葉頃にはやや衰えており、記録と対応している。そして 7 世紀には再び古墳・集落・寺院などで活況を呈したことがわかっているが、これらには葛城氏の 権益を受け継いだ蘇我氏が関与していると考えられている。この地にいた渡来人およびその子孫 たちも蘇我氏が受け継いだものと推測されている。

5.渡来人からみた王権と地方

以上、簡単に西日本の代表的な渡来人関連地域をみてきた。福岡市西新町遺跡のように 3 世紀 代から比較的多くの渡来人が往き来し、一時定着したムラもあるが、渡来人の本格的な移住は 5 世紀に入る頃からである。5 世紀の渡来人関係の遺構や遺物は各地で急激に増加する。今回取り 上げた地域以外においても数は少ないが、同様である。ただ、その遺跡の数は畿内とそれ以外の 地域で差がある。

古墳時代の朝鮮半島系土器出土遺跡は、「はじめに」にあげた資料集などによると、大まかで はあるが、河内 60、大和 80、播磨 80、備前 10、備中 30、筑前 60、豊前 20、筑後 10 である。 朝鮮半島系土器の認識に幅があり、それは考慮しなければならないが、河内、大和、播磨、筑前 に多く、その次が備中である。つまり吉備は確かに一つの地方の中心地ではあるが、筑紫や畿内 にはおよばない。

東アジアの思想風景
古田博司

1980年~1986年まで韓国に滞在し、本書によれば現在は恐らくは離婚しているであろうが韓国人のホステス?と結婚していた学者殿が、雑誌に連載していた内容をそのまま出版したものである。最近はいわゆる嫌韓本の著者としても有名である。以下の箇所以外にはメモに値する記述はない


p59
韓国人と付き合いのある方には周知のことであるが、彼らはこのような議論が大好きである。というよりも自然に彼らの歴史的な個性からあふれ出してくるものとして、彼らの「議論」がある。これは実は、朱子学が禅学から取り入れた問答という形式が、彼らの精神に刻み込まれたものと解することができる

【筑波大名誉教授殿へ。彼らは議論する際に数字を挙げないのが特徴ではありませんか?朱子学の影響ではなく、彼らのDNAこそが今日の韓国・北朝鮮を理解する上での決定的な要素なのです】



日本統治下の朝鮮における憲兵警察機構

松田, 利彦
1995-11-01

憲兵隊数は約1.4万、予算は人口比で見れば内地よりも多い。この数字で間違いないであろう。

1907年に比べ1910年に憲兵隊人員数が大きく減少したとは考えにくい。1910年で憲兵と警察合計で約8000名。義兵と称するゲリラ蜂起にこの人員数と1個師団(1916年以降2個師団へ、朝鮮軍自体は1921年創設)で対応した点からその規模が推定できる。台湾統治初期に2個師団を動員し多数の現地民間人死者を出した点と対比すると、義兵と称するゲリラに関する帰化済み又は朝鮮名のままの在日朝鮮史学者連中の嘘が完全にばれる。
「日本は2個師 団約5万人を投入して,漸く5か月後に平定した27) 。割譲後,日本の支配が 確立される1897年までに,反日ゲリラを含む戦死者は当時の人口の1% 強 の3万2千人にも及んだ。」(「なぜ韓国は反日なのか」より)

台湾の高砂族と同じ規模で蜂起したとすれば、朝鮮の人口1200万からして少なくとも正規軍20万人程度を鎮圧に動員する必要が確実にあったし、民間人死者は、12万以上となるはずだ。従って、義兵と称するゲリラの規模は、台湾に比べ遥かに小さいものであったことは確実である。また、F.Aマッケンジーの著作からゲリラがキチガイどもの悪癖である内紛で組織化されていなかったことも確実である。義兵総大将など存在せず、バカげた自称に過ぎない。

「なぜ韓国は反日なのか」の分析は間違えている。基本的には、単にキチガイどものDNAが異様であるからに過ぎない。

松田氏は現在は国際日本文化研究センター副所長・教授であるが、この論文執筆時は京大文学部助手。数字だけ頂戴した。中身はほとんど読んでない


憲兵警察制度は、機構内での組織原則の面でも、朝鮮民族に対する支配の面でも憲兵が中枢的位置を占める、きわめて軍事色の強いものだった。今日、 一九一〇年代の朝鮮支配様式は、「武断政治」よりも直戴に「憲兵政治」と表現されることも少なくない。

2021-09-15 (2)


過去の研究は、憲兵警察成立の契機を義兵闘争の高揚という点から説明するが、その鎮圧後、いかなる治安目標が設定されたかは十分に明らかにしていない。

2021-09-15

西日本の弥生稲作開始年代
藤尾慎一郎
国立歴史民俗博物館研究報告 第 183 集 2014 年 3 月

①日本と朝鮮半島でほぼ同時期に稲作が開始された可能性が高い。このことは、恐らくは、紀元前10世紀頃中国山東半島から朝鮮半島に移住した人々がたったの一世代で日本列島に再度移住したことを意味する。数世代朝鮮半島に住みつき、日本列島に移住してきたのではない可能性が高まった。恐らくは、朝鮮半島土着の人々との闘争が原因であろうと思われる。ただし、当時の朝鮮半島の人々はseinであり、現在のようなinsein連中ではなかったであろうが?

②環濠集落の状況から、環濠は、明らかにヒトではなく、貯蔵している米を動物から守るためのものである。従って、少数ではあるが土着の縄文人とスムーズに交雑したと思われるが、使用していた言語は異なっていたはずである。???

いつも思うことであるが、弥生初期の朝鮮半島からの移住は、1回~多くとも3回程度に過ぎなかったのか?それとも波状的に数十回、数百回もあったのか?という点である。現在の主成分分析図から見ると、数十回、数百回もあった可能性はほぼないとするしかない。①キチガイどもと日本人があまりにもきれいに分岐している点②日本人に最も近いのはキチガイどもであるが、キチガイどもから見た場合、一番近い関係にあるのは日本人ではなく中国北部の人々である③決定的なのは、7000名及び1万名規模のSNP分析で、現在の九州北部の人々ではなく、関西の人々がキチガイどもに、遺伝的に最も近いという点が判明したことである。このことは、九州と関西の人々の気質の違いにドンピシャで当てはまる。関西人が遺伝的にキチガイどもに一番近いのは、ほぼ確実に帰化人の影響と断定してよい。

だとすれば、一番可能性が高いのは、稲作をもたらした人々は遺伝的にはキチガイどもとはかなり異なる人々が、恐らくは中国山東半島から朝鮮半島を一時的に経由して、恐らくはたったの1回九州北部に移住し、少数の縄文人と闘争することなくスムーズに交雑し、急速に人口が増大した。朝鮮半島では、山東半島から集団で移住してきた人々全員が日本に移住したわけではないので同様に稲作が始まった。

いずれにしても、大元は長江河口付近の人々である。
長江河口付近→山東半島(数世代)→朝鮮半島(一世代以下)→日本

キチガイどもの分析でも、連中は中国北部と南方系の両者の要素を遺伝的に含んでいることは確実で、文献のみに依拠する中国人の論文では、根拠薄弱にもかかわらず自信たっぷりに穢族は南方系の旨明言している。魏史では韓族に対しては綱紀少なし(=恐らくは男女関係がだらしないとの趣旨)と批判的であるが、穢族や倭人に対しては好意的に記述している。そして、朝鮮半島の歴史は明らかに遺伝的に異なる種族を韓族=新羅が朝鮮半島から追い出したとみてよい。朝鮮戦争における極めて激しい100万にも及ぶ同胞殺しから見ても恐らくは追い出す過程で、中国人・後の女真族であろう穢族や倭人などの異なる種族はほぼ確実に逃げ遅れた場合には皆殺しにされたであろう。連中は元からinseinであったが、13世紀のモンゴル軍侵攻で人口が大幅減となり、さらにinseinが加速され、現在のキチガイどものDNAが形成されたとみていい

③この論文の結論は、一番下の赤字にした部分に尽きるが、九州を出るのに250年というのは納得できない。単に遺跡が発見されていないだけであると思われる。


対象とした遺跡は,新たに測定した福岡県大保横枕遺跡,徳島県庄・蔵本遺跡,鳥取県本高弓ノ 木遺跡と,過去に行った福岡県福重稲木遺跡,同雀居遺跡,熊本県山王遺跡,大分県玉沢条里跡遺 跡,愛媛県阿方遺跡,広島県黄幡 1 号遺跡である。

測定・解析の結果,板付Ⅰ式新段階の年代が前 8 世紀末葉の 20 年間ほどであることを初めて確 認するとともに,板付Ⅱa 式は前 700 ~前 550 年頃,板付Ⅱb 式は前 550 年~前 380 年頃,という 2009 年段階の結論を追認した。
さらに鳥取平野の弥生稲作が,近畿よりも早い前 7 世紀前葉には 始まっていた可能性のあること,徳島平野では奈良盆地や伊勢湾沿岸地域と同じ前 6 世紀中頃に なって弥生稲作が始まっていたことを再確認した。

伊勢湾沿岸地域で弥生稲作が始まるまでの約 400 年のうちの約 250 年間,九州北部玄界灘沿岸地 域にとどまっていた弥生稲作は,玄界灘沿岸地域を出ると,一気に鳥取平野~岡山平野~香川平野 ~高知平野を結ぶ線まで広がり,その後も 5 ~ 60 年で神戸,さらに 70 年で徳島,奈良盆地,伊勢 湾沿岸まで急速に広がっていった。このことは,玄界灘沿岸地域と西日本では,縄文人の弥生稲作 の受け入れ方になんらかの違いがあった可能性を示唆している。

はじめに
2003 年の弥生稲作開始年代前 10 世紀説の発表から約 10 年。
一方,朝鮮半島では
青銅器時代の研究者の間で弥生稲作前 10 世紀開始説を肯定する研究が増え てきた[安在晧 2009]・[李亨源 2013]。

安 在晧 2009「松菊里文化成立期の嶺南社会と弥生文化」(『弥生時代の考古学』2 ―弥生文化誕生―,73‒89 頁, 同成社)。

李 亨源 2010「集落構造からみた韓国中西部地域の青銅器社会」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第 160 集, 73‒188 頁 )。

李 亨源 2013「韓半島の初期青銅器文化と初期弥生文化」(『国立歴史民俗博物館研究報告』投稿中)。

伊勢湾沿岸地域で弥生稲作が始まるまでの 400 年あまりの間,実に約 250 年間(土器型式の数は 4 つで同じ)も九州北部玄界灘沿岸地域にとどまっていた弥生稲作は,玄界灘沿岸地域を出た途端, 一気に鳥取平野~岡山平野~香川平野~高知平野を結ぶ線まで広がり,その後も5~60年で神戸(土 器型式でいうと板付Ⅱa 式古に相当),さらに 70 年(板付Ⅱ a 式新に相当)で徳島,奈良盆地,伊勢湾 沿岸まで急速に広がっていったということになる。どこも均等の 30 年ずつ広まるという短期編年 にもとづく考え方から,九州島を出るのに 250 年,その後は 50 ~ 70 年ぐらいに急速にスピードを あげるという弥生長期編年のもとで明らかになったことの意味は何か。



(1)九州北部の板付Ⅰ式新,板付Ⅱa式,板付Ⅱb式資料
① 大保横枕遺跡の概要

今回初めて測定した福岡県小郡市大保横枕遺跡は,
弥生前期の二重環壕遺跡である[山崎編 2012]。

住居は基本 的に環壕の外に造られ,内側には貯蔵穴が造られている。住居が環壕内に造られたのは,環壕が機 能する後半期にあたる板付Ⅱb 式~板付Ⅱc 式とされている。

環壕断面形は内 ・ 外環壕ともV字~逆台形で深さは 1.6 ~ 1.9m(裏表紙写真参照),平面プランは, 内環壕が 54.8 × 53.4m,外環壕は 79.6 × 78.8m を測り,野球のホームベースに似た形をしている(表 紙写真参照)。

今回測定した土器はすべて内環壕内の土坑や内環壕から出土したもので,20 点の土器からサン プリングしたが,測定値を得ることができたのはわずか 9 点である。


(2)九州東部~西部瀬戸内

① 大分市玉沢条里跡遺跡第 7 次調査[藤尾・小林 2006]

② 今治市阿方遺跡(図 4‒4:4 ~ 6,図 5‒1:5 ~ 7)
今治市阿方遺跡(愛媛県教育委員会調査分)から,突帯文土器の沢田式新土器(図 4‒4 ~ 6,図 5‒1)と, この地域最古の遠賀川系土器(図 5‒5 ~ 7)が出土した。
③ 黄幡 1 号遺跡(図 5‒2 ~ 4)[鍛冶編 2005]
東広島市西条町に所在する遺跡


(3)山陰 鳥取市本高弓ノ木遺跡(図 6・7)[濵田ほか 2012,藤尾 ・ 濵田 ・ 坂本 2013a]
鳥取市本高弓ノ木遺跡は,中国山地に端を発して北流する千代川に合流する有富川の北岸に広が る谷底平野に立地する縄文時代から近世にいたる複合遺跡である。2009 ~ 2010 年度の発掘調査で 縄文晩期末~弥生前期中頃に埋没した河川が検出され,突帯文土器や遠賀川系土器が多数出土した。 土器にはイネ,アワ,キビの種実圧痕が多数見つかっており,鳥取平野における弥生稲作開始期の 様相を語るうえで重要な遺跡の 1 つである。


❹……………西日本各地の弥生稲作開始年代

(1)筑後
小郡市大保横枕遺跡の年代学的調査によって,小郡では板付Ⅰ式新段階に併行する弥生前期前葉 (前 8 世紀末葉)に弥生稲作が始まったことがわかった。前 7 世紀になると環壕が掘られ環壕内には 貯蔵穴が造られるが,住居は造られていない。

今回,大保横枕遺跡の年代学的調査によって前 8 世紀末葉という年代が導き出されたことによっ て,福岡平野~唐津平野にかけての玄界灘沿岸地域で前 10 世紀後半に始まった弥生稲作が,この 地域外に広がるのに 130 年あまりかかることがわかった。

ほぼ同時期に九州島を出ているかどうか も興味深いが,御笠川を挟んで板付遺跡と対峙する雀居遺跡で,大保横枕遺跡で弥生稲作が始まる のと同じ時期に板付Ⅰ式新が存在していることは,板付祖形甕の存在と板付Ⅰ式創造との関係を考 える上で重要な示唆を与えている。すなわち,板付遺跡と並んで弥生早期から弥生稲作を始めてい ても,板付Ⅰ式を創造できなかった雀居遺跡や那珂遺跡で,板付Ⅰ式新が登場するのが,少なくと も板付遺跡に遅れること 50 年であることを意味しているからである。

(4)徳島市庄・蔵本遺跡(写真 1)[藤尾ほか 2010]
徳島市庄・蔵本遺跡は,灌漑用の水路を備え,大小畦畔によって細かく区画された水田で弥生稲 作が行われると同時に,集落縁辺の傾斜地において畑作が行われていた遺跡である。

(2)九州東部(大分)~四国西部(高縄半島)
九州北部を出るのに 250 年 ぐらいかかった弥生稲作は,九州島を出るとわずか 50 年程度で,一気にこの線に到達するのは興 味深い。

(3)鳥取平野
,中部瀬戸内と同じ時 期に弥生稲作が始まっていたとしても問題はない。

(4)徳島平野

(5)西日本各地の弥生稲作開始年代
図 12 は IntCal09 上に本稿で対象とした土器型式の炭素 14 年代と較正年代,各地の弥生稲作開始 年代を落としたものである。

前 10 世紀後半に玄界灘沿岸地域で始まった弥生稲作は,前 8 世紀末葉には筑後など,玄界灘沿岸地域の 周辺でも始まり,

前 7 世紀に入ると九州島を出て鳥取平野から中部瀬戸内を通り高知平野を結ぶ線 を東限とする範囲まで広がったことがわかる。

九州島内を出るのに 250 年あまりかかっての拡散で ある。その後は 50 年ぐらいの間隔で大阪湾沿岸,奈良盆地・伊勢湾沿岸へと,短い時間で急速に 広がる。ただこれは,各平野で最初に弥生稲作が始まる年代であって,その平野全体に広がる時期 を示すものではない[藤尾 2011]。


なぜ韓国は反日なのか
ーー日韓関係と日台関係の比較の視点からーー

松村昌廣 桃山学院大学法学部教授

興味深い論文であった。しかし、前半の記述の多くを、黄文雄の著作に頼っている。

キチガイどもが、オランケ」=野人と呼び蔑視してきた女真族が打ち立てた清朝の支配下となったことにより小中華主義が生まれ、ついで倭人=チビ人種と呼んできた日本人の完全支配下にされたことに伴い、今日の韓国の反日が生まれた!これで間違いないが、法学部教授であり、そのような情緒的側面には触れていない。朝鮮史を詳しくはご存知ないのであろう。

法学部教授が、アメリカ食品医薬品局が組織的に書いたとしか思えない論文を読まれた場合、どのような感想を持たれるのかを知りたい。朝鮮人DNAの異様性をくどいほどにデータを示してハッキリと指摘している遺伝学論文を私がしたように精読すれば、恐らくは異なる結論とならざるを得ないのではなかろうか?彼らが、集団として見た場合には、遺伝的には明らかに特異そのものであり、集団中に8%~18%もの明らかなDNA異常者を有しているという特性が主原因であると


本論では韓国人の「反日」と台湾人の「親日」を比較対照するこ とによって,この因果関係の解明を目指すこととする1

15)例えば,黄文雄『韓国人の「反日」 台湾人の「親日」──朝鮮総督府と台湾総 督府』,光文社カッパブックス,1999年。崔碩栄『(韓国人が書いた)韓国が 「反日国家」である本当の理由』彩図社,2013年。

3 .日本統治における差異

台湾は本質的に植民地であったと見做すこ とは不可能ではないが,同一の法律がほぼ適用されることとなったことに鑑 みれば,多くの面で内地並みの扱いを受けていたことになる19)

19)黄文雄『韓国人の「反日」 台湾人の「親日」』前掲,25頁~28頁。黄文雄『台 湾は日本の植民地ではなかった』前掲,55頁~93頁。

他方,(李氏)朝鮮が国際法上の独立主権国家となったのは,下関条約 (1895年)の結果であった。
【バカな話であるが、国際法上の李氏朝鮮の地位を忘れていた】

同条約第1条は「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル 独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」と規定している。つまり,日清戦争で勝利 した日本が宗主国の清国から朝鮮を独立させたことは明らかである。

その 後,朝鮮は極東を巡る列強間の争いのなか,自主独立を全うできず,日露戦 争中の第一次日韓協約(1904年)と同戦争後の第二次日韓協約(1905年) を経て外交面で日本の保護国となり,更に第三次日韓協約(1907年)を経て内政面でも日本に制御されることとなり,結局,日韓併合となった(1910 年)。

併合は天皇を戴く同君合邦国家だった。併合後,大韓皇帝の血族は朝 鮮王公族となり,日本の皇族に準じた礼遇を,朝鮮貴族は日本の華族と同様 の礼遇を,各々与えられた21) 。こうした取り扱いは欧米列強の侵略と征服を 特徴とする植民地では殆ど例がない。

朝鮮の法的位置付けに関しては,台湾統治の経験に倣って実質的には内地 延長主義が採られたが,法制は台湾のような展開とならず,朝鮮総督による 委任立法(制令)で対処された。

つまり,内地の法令を適用する場合は,制 令第一号「朝鮮ニ於ケル法令ノ効力ニ關スル件」(1911年)と「朝鮮ニ施行 スヘキ法令ニ關スル法律」(1911年)に基づいて朝鮮総督による命令の形式 を採った。

行政面 では,朝鮮総督は天皇に直隷し,陸海軍の指揮権と一切の政務の統轄権を有 して,台湾総督のように内閣総理大臣の監督を受けなかった22) 。


割譲後も,台湾での日本統治への抵抗は大変強かった。下関条約締結後, 清朝の官吏だった者を指導層とする台湾民主国が建国された。日本は2個師 団約5万人を投入して,漸く5か月後に平定した27) 。割譲後,日本の支配が 確立される1897年までに,反日ゲリラを含む戦死者は当時の人口の1% 強 の3万2千人にも及んだ。

さらに,1906年から1909年まで,山岳地帯の高 砂族を鎮圧するために計18回も出動し,この間,軍隊,警察,民間人の戦 死者940人,負傷者1,229人に達した28) 。

他方,李王朝は下関条約(1895年)によって独立し,
内部崩壊が決定的に進行していた29) 。

29)黄文雄『韓国を日本人がつくった』前掲,96頁~100頁。呉善花,前掲,11頁 ~31頁。


確かに,大韓帝国が第二次日韓協約によって日本の保護国になった後に は,独立・改革を目指すナショナルな反日義兵運動と愛国啓蒙運動があった ことは事実である。しかし,前者は一時数万人規模の対日武装闘争集団で あったと言っても,1907年から1908年の日本軍の兵力増強の結果,分散し てゲリラ化し,1910年末までに数千人程度の日本軍に一方的に鎮圧された。 その原因は,地縁・血縁を超えて全国民的な団結や統制ができなかったこと に有ると思われる。他方,後者は派閥抗争を繰り返し,全国的に幅広い支持 を獲得することができなかった31) 。

したがって,朝鮮に対する日本統治は台湾におけるそれとは対照的に殆ど これといった武装闘争・抵抗を受けることがなかった。もっとも,初期的な 民族意識の芽生えによる武装闘争と愛国運動が流産したことから,朝鮮の民 衆に大きな挫折感と怨恨を惹起せしめたことは想像に難くない。

【このような見方もあることに驚いたが、確かに、いわゆる義兵蜂起など、高宗退位に伴いその特権を失ったソウルの両班が、地方に逃れ、ゲリラ的に少数蜂起したに過ぎなともいえる。正確な規模は不明であるが、最大でも1~2万人程度であろう。民衆蜂起と言える3・1運動は武装闘争をほぼ含まない】

2)統治下の経済社会発展
(1)台湾

日本の統治は内地延長主義の下,開発志向の強い善政であったと言えるだ ろう。端的に言えば,日本は台湾に近代的なインフラを建設し,飛躍的に公 衆衛生環境を改善し,殖産興業により飢餓状態から脱却させ,近代的な教育 制度を導入した33) 。

33)黄文雄『台湾は日本の植民地ではなかった』前掲。

こうした経済社会発展の結果,台湾総督府財政は割譲後10年の1905年に は,中央政府からの補充金を辞退したことに如実に示されるように,財政的 な自立に成功し,それ以後,日本の敗戦による統治終了までその状態は続い た34) 。 台湾の統治は基本的に黒字経営であり,日本にとって大きな経済的な利益 をもたらした。

34)同上,69頁~70頁。ここでは,黄昭堂『台湾総督府』教育社,1981年,84頁~ 85頁,を参照している。

(2)朝鮮
日本の国費で近代的なインフラや学校を建 設し,衛生環境を改善し,餓死者や病死者を激減させ,食糧生産と人口が倍 増した。

【この点については、F.Aマッケンジーの邦訳はないが、Korea's Fight for Freedomでさえもハッキリと認めている】

日本統治は朝鮮に対する七奪(主権,国王,人命,国語,姓 氏,土地,資源を奪った)だったのではなく,七恩を施したと捉えるべきで ある38) 。

37)黄文雄『韓国を日本人がつくった』前掲。同『歪められた朝鮮総督──誰が「近 代化」を教えたか』光文社カッパブックス,1998年。アイルランド『The New Korea 朝鮮が劇的になった時代』,前掲。アキタ『日本の朝鮮支配を検証する 1910-1945』,前掲。なお,台湾における創氏改名は許可制であったことから, 朝鮮人は台湾人よりも優遇されていたと言える。黄文雄『韓国を日本人がつくっ た』前掲。

38)黄文雄『韓国を日本人がつくった』前掲,4頁~5頁。


朝鮮の統治はその全36年間の期間に亘ってほぼ継続的(1920年を除く) に赤字経営であったため,日本は常に一般会計から赤字分を補充し,大きな 財政的負担を負い続けた。

1910年の統治開始の時点で,日本からの無利子 無期限の借入金額がその年の歳入の29% 弱,公債が72% 強,合わせて1年 の歳入分を超えていた。同年の歳入は台湾の人口の4倍を有しながら,ほぼ 同額であった。その後,統治終了まで,朝鮮総督府は日本政府からの補充金 で毎年の歳出総額の内,平均15~20% を賄い,専ら基本インフラや産業振 興のために投資した39) 。

つまり,朝鮮総督府財政は終ぞ自立できなかっただけでなく,「日本国民 の税金で朝鮮半島の民を養い,近代国家として社会的経済的基盤を確立し, 自立の道を育てた」と言えるだろう。また,こうした観点から見れば,「『搾 取』されていたのは・・・日本人であった」と捉えることができるだろ う40) 。

3)敗戦後

(1)台湾
連合国軍最高司令官は一般命令書第1号 (SCAPIN-1,1945年9月2日)を発して,中華民国軍の蒋介石総司令官を 台湾接収・占領の代行者に指定したことから,その実施は中華民国軍が担っ た。その後,中華民国軍が台湾の軍事占領を続ける中,講和条約締結の前 に,シナ大陸において国共内戦が勃発し,結局,中国共産党軍が勝利する と,1949年には中華人民共和国が成立した。
その結果,最終的には,中華 民国の政府と軍及びその家族合わせて200万人以上41) が大挙して大陸から台 湾に敗退して,台北を臨時首都(憲法上の首都は南京のまま)として今日に 至っている。したがって,本来,暫定的であるはずだった軍事占領が国共内 戦の結果,半ば恒久的になり既成事実化していると言えよう42) 。

その後の国民党独裁政権は1987年までの40年間に亘って戒厳令を敷いて 恐怖政治を行った。この期間は反乱事件が2,905件,死刑,迫害を受けた者 が14万人に達し,白色テロの時代として知られている45) 。

(2)朝鮮

かなり控えめな概算でも,韓国側の死者は軍人21万7千人, 民間人100万人,北朝鮮側では軍人40万6千人,民間人60万人にも及ん だ46) 。

46)“Korean War Fast Facts”, CNN, https://edition.cnn.com/2013/06/28/world/asia /korean-war-fast-facts/index.html,2018年5月8日アクセス。

日本の敗戦後の体験における差異が台湾人と韓国人の日本統治時 代に関する評価を大きく左右することとなった。台湾人は国共内戦で敗退し た中華民国・国民党政権がやってきて40年間に亘って恐怖政治を敷いた結 果,相対的に日本統治時代が肯定的に捉えられてきた。他方,韓国人が戦前 の日本と比べたのは朝鮮戦争において韓国防衛を主導しその後も今日まで相 互防衛条約を結んで韓国の防衛を支えた米国であった。確かに,韓国の高度 経済成長は多分に日本から供与された原資や技術によって可能となったが, それは軍事政権による抑圧的な開発独裁によって実現された。しかも,その 中核を担ったのは親日的と見做された指導者たちであった。こうした経緯か ら,韓国人の日本統治時代に対する評価は否定的なものとなった。

4 .近年における変化──韓国の変則性 1)
国家存亡の危機
(1)正統性の欠如

韓国は建国以来,その正統性の欠如に苦しんできた。

確かに,憲法全文に はその法統は1919年に上海に結成された大韓民国臨時政府から継承された と規定されている。つまり,1910年に日本との併合によって消滅した大韓 帝国の法統は継承していない。周知のように,日韓基本条約の締結交渉にお いて,韓国は,日本を含め多くの国が有効に成立したと捉えている日韓併合 条約自体が国際法上無効であったと主張したため,同基本条約(1965年) では,併合条約が「もはや無効である」との表現になっている。

しかし,韓 国が主張するように,もし併合条約がそもそも無効であったのであれば,大 韓帝国は依然として存在していたはずであり,当然,少なくとも一旦は大日 本帝国憲法下の朝鮮王公族の中から新皇帝を即位させ,同帝国を復活させた 上で,そのまま継続するか,はたまた適正な法的手続きを取って新たな国家 体制に移行せねばならなかったであろう。ところが,大韓帝国の法統を継ぐ 手続きは一切講じられず,今日に至っている。

つまり,韓国の法統は十分明確かつ堅牢に確立されているとは言い難い状 況にありながら,客観的には,韓国は北朝鮮と共に朝鮮半島全体に領有権を 主張し,正統性を競っている。北朝鮮も非常に多くの国と正式の外交関係を 有し(つまり,国家・政府承認を与えられている),国連の加盟国でもある。 主要国で北朝鮮と外交関係を持たないのは米国,日本,フランスぐらいであ る。


問題は,累積的な日本化(より正確には,日本型の近代化)が小中華を当 為とする韓国の民族アイデンティティーと真っ向から衝突することにある。 つまり,韓国人にとって日本に対する優位はイデオロギー上の真実である が,韓国が日本の劣位にあるのが客観的な事実である。前者の有効性を主張 し続けるためには,客観的な事実である日本に対する劣位が,少なくとも過 去の日本の非道徳的行為によってもたらされたこと,そしてその全て責任が 日本に帰することを,公式に日本に認めさせる必要がある。この目的を実現 するための具体的手段として,韓国が国際及び国内政治状況に応じて一連の 歴史問題を反復・継続して執拗に主張する必要があることは当然の帰結であ ると言えよう。





帰化人と古代国家
平野邦雄

百済滅亡は、7世紀であり、遺伝的には最も影響が大きく、今日でも関西人のSNPは、東北と明確に異なる

(1)4世紀末
(2)5世紀末から6世紀始め
(3)7世紀末
波状的に到来した帰化人はその集団性に特徴がある

 p9
帰化人は我々の祖先以外のものではない

p30
この碑は
高さ6mあまり
碑の4面に全文1700字が刻まれている
明治17年(1884)参謀本部員で清国に派遣されていた酒匂景信中尉
(発見者は、上記の軍人)

p33
第3面では
倭は以外にも帯方界にまで侵入してきたので、大王はこれを迎え討ち、
「倭寇潰敗、斬殺無数」
倭は敗れ退いた

p98
古代の畿内は帰化人の集住した地域である

p99
新撰姓氏録によると、氏は皇別、神別、諸蕃の3つに大別されるが、総数1182氏のうち諸蕃は324氏で全体のほぼ3分の一を占める

p123
663年白村江の戦いで百済が滅亡したことは
帰化人の渡来に画期的な影響を与えた
百済からは、王族、高級官僚より下級官吏、農民層に至るまで、あらゆる種類の帰化人が渡来した

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(かなり、他の学者と異なるが、意外に正しいかもしれない)
 

渡来人
森浩一  編

続日本記の記述から、少なくとも7世紀には、言語は完全に分岐している。かつ、渡来した人々と日本人との混血が記録上、殆ど無い

p25
今まで調査された前方後円墳はいずれもだいたい5世紀後半から6世紀前半にかけてのもので、日本列島の前方後円墳よりずっと新しい時代に作られていることが大きな特徴です
百済の南部と日本列島の倭との間には非常に深い交流があって、その中で生まれたものであることは間違いないと思います

p89
渡来人の動きを眺めてみますと、大きく3つの流れがあったと考えられています。
(次の3つだそうだ。
4世紀末から 5世始め
5世紀後半から6世紀
7世紀後半) 


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(上はp103から。記述からして言葉は相違していたことは間違いない)
 
p96
県主集団と渡来系の秦人集団との間にはまったくといってよいほど婚姻関係つまり通婚関係がないのです

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(現時点で全てのSNP分析図で朝鮮人と日本人は、明確に分岐している。たったの1500年で、これほどのはっきりした分岐が生じた理由の一つかもしれない)

p136
恐らく弥生時代の北九州と朝鮮半島南部の人たちは同一文化圏であったのではないかと思いますが、時間が経てば言葉の問題が必ず生じます 

西北九州弥生人の遺伝的な特徴 

―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―
篠田 謙一 神澤 秀明、角田 恒雄、安達 登 2

平成 31 年 4 月 23 日受理

この論文の後、令和2年に同じ筆者らにより、弥生中期遺跡の人骨1体のSNP分析では、完全に現代日本人にプロットされるという非常に奇妙な結果が出ている。この論文の内容は、完全に2重構造説と合致する。縄文人との混血は、九州北部で弥生時代の開始(一応、BC700年頃としとく)とともに始まり、その後、奈良時代において、東北地方の蝦夷(=アイヌの祖先)との間にも大規模に生じ、言い換えれば、約1400年間も続いたと考えてもよい。加えて、いわゆる渡来人・帰化人の流入が断続的にあったことは確実であり、赤字で文字サイズを大きくしてある箇所は、帰化人の影響と見れるかもしれないが、遺伝的流入が9世紀まで長期にわたり継続した結果であることは確実である。いずれにしても、9世紀に新羅と完全に断交し、遺伝的流入が完全に停止し、現代日本人のDNAが形成された。9世紀にもし断交していなければと思うと、心の底からぞっとする。恐らくは、19世紀にフランス又は帝政ロシアの植民地となっていたであろう。

今、日本人のDNAは、歴史上最大の危機を迎えている。朝鮮半島のinsein連中は、韓国の異常なまでの出生率低下や北朝鮮の惨状を見る限り、いずれ近い将来=遅くとも100年以内に自滅する。

しかし、「利己的な遺伝子」ではなく、邪悪な遺伝子は、100%確実に、宿主を変えて生き延びようとする。海を隔てているとはいえすぐ近くに、邪悪ではない、62もの国際的な学術賞受賞者数という結果データからのみから見ればはるかに良質な遺伝子集団が存在する。確実に、insein連中の邪悪な遺伝子は、日本人に宿主を変えて生き延びようとする。何が何でも防がねばならない


佐世保市下本山岩陰遺跡から出土した 2 体の弥生人骨の核ゲノム解析を行った。これらの人骨は,遺跡 の地理的な位置と形態学的な研究から縄文人の系統を引く西北九州弥生人集団の一員であると判断されて いる。

長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡からは 2 体の弥生時 代人骨が出土している。この遺跡は西北九州弥生人の居 住した地域の中にあり(図 1)
,出土した人骨の形質も「高 顔傾向が見られる点に留意しなければならない」という 条件が付いているものの,全体的には北部九州の渡来系 弥生人よりは縄文時代人と類似すると結論されている (海部ほか,2017)。つまりこの人骨は,形質の面からは 他の西北九州の弥生人と同じく,縄文人の系統を引く集 団の構成員であると判断される。


2021-09-10

一方,我々が実施したミトコンドリア DNA の系統解 析では,同一の石棺に合葬された上記の 2 体のうち,2 号女性のミトコンドリア DNA のハプログループは M7a1a4,3 号男性は D4a1 であり,前者は典型的な縄文人の系統,後者は渡来系弥生人の系統を引くミトコンド リア DNA ハプログループをもっていることが判明して いる(篠田ほか,2017)。

この 2 つのハプログループが 同一の遺跡,しかも同じ石棺墓に埋葬されていたことは, 在来の縄文系集団と渡来系弥生人の混合が始まっている ことを予想させるが,母系に遺伝するミトコンドリア DNA のハプログループのデータだけからでは,その程 度については結論することは難しい。

本 研 究 で は, 次 世 代 シ ー ク エ ン サ(Next Generation Sequencer, NGS)を用いて核 DNA の分析を行 い,この問題の解決を目指すことにした。

下本山 3 号の Y 染色体ハプログループは O であ る可能性が高い。
1KG,SGDP のデータと比較した結果,下本山弥生人 2 個体はいずれも本土日本人と縄文人の間に位置した (図 3A)。

2021-09-10 (1)


【下本山 3 号は男性であり、SNP分析では縄文人にかなり近い。ハプログループはOであり、この男性自身が、縄文人と弥生人との混血あったことは確実】


また,日本列島人 3 集団(アイヌ,沖縄人, 本土日本人)との比較でも,下本山弥生は本土日本人や 沖縄と縄文人やアイヌの間に位置し,アイヌの一部とは 重なっていた(図 3B)。


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F4-statistics について,f4(Mbuti,船泊縄文;下本山 弥生,集団 X)という集団比較でも,下本山弥生人は現 在のいずれの集団よりも縄文人への遺伝的類似性が見ら れた(表 3-1,付表 6-1)。また有意ではないが,下本山 弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人に遺伝的に近い 傾向を示した(表 3-2,付表 6-2)。これは,outgroup f3- statistics の結果とも一致している。


次に,f4(Mbuti,集団 X;下本山弥生,船泊縄文) という集団の組み合わせで,下本山弥生人に渡来系の遺 伝要素が含まれるのか検証した。その結果,有意ではな いが下本山弥生人は船泊縄文人に比べて大陸集団への遺伝的類似性を示す傾向が見られた

最後に,渡来系の要素が下本山弥生人と現代日本人のど ちらに多く含まれるか検討するために,f4(Mbuti,集 団 X;下本山弥生,現代日本人)という組み合わせの検 定を行ったところ,現代日本人が大陸系集団との遺伝的 類縁性が有意に高いという結果が得られた

現在では古人骨の DNA 分析でも次世代シークエンサ を用いるようになり,核ゲノムの解析が可能になってい る。特に2014 年以降は,ヨーロッパを中心とした地域で, 数多くの古代人のゲノムが解析され,これまでには知る ことのできなかった集団の成立のシナリオが語られるよ う に な っ て い る( 例 え ば Gamba et al., 2014; Fu et al., 2016)。

下本山 3 号は,ミトコンドリア DNA のハプログルー プも D4a という渡来系集団が持つと考えられるタイプ だったので,母系と父系に伝わる遺伝子の双方が渡来系 の系統を持っていたことになる。

しかし核ゲノムの解析 では,この個体も縄文系の遺伝子を保持していることが 判明しており,在来の縄文集団と渡来系集団の双方に由 来するゲノムを保持していることが明らかとなった。

 様に縄文系のミトコンドリア DNA ハプログループを 持っていた 2 号女性人骨も,ゲノムの解析からは渡来系 弥生人に由来すると考えられる遺伝子を持っていたこと も示された。

日本列島の人類集団の形質は,縄文から弥生時代にか けて大きく変化したことが知られており(例えば Dodo and Ishida, 1990; Matsumura, 1994),弥生時代は日本人の 成立を考える上で重要な時期である。この形質の移行期 の九州には 3 つの出自の異なる集団が存在したとされ る


そのうち,西北九州の弥生人の顔面部の形態は,低 顔性が強く,眉間から眉上弓へかけての高まりが著明で, 鼻根部は深く陥没する。男性の身長は 160 センチメート ル以下とやや低く,四肢骨のプロポーションでも四肢骨 の末端が比較的長いという縄文人と共通した特徴を持っ ている。


【人類学から分析すれば西北九州型弥生人は、縄文人に分類される】
その形態学的な特徴をまとめた内藤(1981, 1984)は,四肢骨の形状に古墳人につながる特徴も認め ているが,西北九州弥生人は人骨形質と考古学的所見を 合わせて,「縄文人の継続であって,新しい種族の影響 を受けたとは考えにくい」と結論している。西北九州弥 生人の歯の形態を研究した小山田(1992)も,北部九州 弥生人が縄文人および西北九州弥生人に対して大きな歯 を持ち,縄文人と西北九州弥生人との間にはほとんど有 意差がなかったことを見いだしており,彼らが縄文人の 系統の集団であると結論している。

下本山岩陰遺跡 出土の弥生人骨は,放射性炭素年代法により弥生時代の 後期に属するとされている(海部ほか,2017)ので,
本研究の最も重要な点は,図 1 に示したような九州の 弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれてい たという図式は,この時代の状況を誤って解釈する可能 性があることを示したことにある。

少なくとも,渡来系 弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には,形態学的 な研究が予想するよりもはるかに規模の大きな混血があ り,双方は弥生時代の全期間に渡って明確に分離した集 団ではなかったと考えられる。

ただしその交雑の状況は, 地域ごと,遺跡ごとに様々であった可能性があり,今回 の分析例を持って西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表 させることはできない。しかし,西北九州弥生人という 集団は固定的なものではなく,時代とともに変化していった流動性のあるものだったと捉える視点は重要であ ろう。渡来した集団が長い時間をかけて在来集団を取り 込んでいったことを考えれば,形態学的な研究が定義し ている渡来系弥生人と西北九州弥生人は,混血の程度の 地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけである という解釈も成り立つ。


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The Peopling of Korea Revealed by Analyses of Mitochondrial DNA and Y-Chromosomal MarkersHan-Jun Jin,Chris Tyler-Smith,Wook Kim
January 16, 2009

この論文で意味があるのは、下記データのみである。

①Asian populations studied
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0004210.s001


②mtDNA-haplogroup distributions in East Asian populations

https://doi.org/10.1371/journal.pone.0004210.s002


③Y-haplogroup distribution in East Asian populations

https://doi.org/10.1371/journal.pone.0004210.s003

④FST distances of Y chromosome haplogroups in east Asian popoulations (non-significant values are underlined). aHong et al. [29]bXue et al. [31].

https://doi.org/10.1371/journal.pone.0004210.s006

⑤R
ST distances in east Asian populations using ten Y chromsome STRs (non-significant values are underlined). aHara et al. 
[34]bHuang et al. [40]cHwang et al. [35]dYan et al. [38]eZhang et al. [33]fZhang et al. [39]gYong et al. [32]hXue et al. [31].

https://doi.org/10.1371/journal.pone.0004210.s007


The Koreans are generally considered a northeast Asian group because of their geographical location.

However, recent findings from Y chromosome studies showed that the Korean population contains lineages from both southern and northern parts of East Asia. To understand the genetic history and relationships of Korea more fully, additional data and analyses are necessary.

We analyzed mitochondrial DNA (mtDNA) sequence variation in the hypervariable segments I and II (HVS-I and HVS-II) and haplogroup-specific mutations in coding regions in 445 individuals from seven east Asian populations (Korean, Korean-Chinese, Mongolian, Manchurian, Han (Beijing), Vietnamese and Thais).

In general, the Korean mtDNA profiles revealed similarities to other northeastern Asian populations through analysis of individual haplogroup distributions, genetic distances between populations or an analysis of molecular variance, although a minor southern contribution was also suggested. Reanalysis of Y-chromosomal data confirmed both the overall similarity to other northeastern populations, and also a larger paternal contribution from southeastern populations.

The present work provides evidence that peopling of Korea can be seen as a complex process, interpreted as an early northern Asian settlement with at least one subsequent male-biased southern-to-northern migration, possibly associated with the Asian group because of their geographical location. However, recent findings from Y chromosome studies showed that the Korean population contains lineages from both southern and northern parts of East Asia. To understand the genetic history and relationships of Korea more fully, additional data and analyses are necessary.ay: inline-block; float: left; font-size: 12px;">original image

ビッグ・クウェチョン<人類の難問に答えよう>
スチーブン・ホーキング

同氏の最後の一般向け著作である。このメモを始める以前に同氏の著作はほとんど読んでいた。この本で、ホーキングは若干20歳でケンブリッジ大学の博士課程に入学していたことを初めて知り、かつ、ホーキングのY染色体は後世に残されたことを知った。息子が1名いるのである。この家系を5世代程度追跡するべきだ。このクラスの天才は遺伝でしか出てこない。タイトルが良くないの一言に尽きる


p28
ペンローズと一緒にやった研究では、一般相対性理論は特異点で破綻することを示したのだから

p30
IMG_1516
【A以外はすべて定数であり、事象地平面積に単純比例。

Sはブラックホールのエントロピー
Aは事象地平の面積
cは光速度=2.99792458×108
Gは重力定数6.67430(15)×10−11
プランク定数を2πで割ったエイチバー 1.054571817…×10−34
kはボルツマン定数1.380649×10−23

S=klogWであるので、上の式の左辺と同じ

W は相空間(実空間+運動量空間)内で分子集団が占めることのできる"体積"と見なしていい

エントロピーは、ジュールケルビン(記号: J/K)

事象地平の面積は下図が分かり易い
aa1
エルゴ球では外部への脱出は可能

ちなみにホーキング放射はこの本では触れていないが下記。熱放射する=エネルギーを失う=消滅する
だが、上の左辺分子は10のマイナス26乗、分母は、事実上は、10のマイナス23乗×ブラックホールの質量(太陽の質量は2×10の30乗、10倍大きいブラックホールでも31乗)なので、10の8乗。

結果、10のマイナス18乗ぐらいがブラックホールの絶対温度。0.00000000000000001度だ
事実上は熱放射はないに等しいので、消滅するのは、ほぼ永遠に近い将来になるはずだ。

暇なとき上と組み合わせて頭の体操で遊ぼう

aa3
p43
私はアインシュタインと同じく神という言葉を人格を持たない自然法則という意味で用いる
【無視論者であると明言している】

p48
ビックバンで正のエネルギーが大量に生じた時、それと同じだけの負のエネルギーも生じた
いまはどこにあるのだろうか
空間そのものが負のエネルギーの広大な貯蔵庫なのだ

p52
ビックバンの瞬間には、時間に途方もないことが起こった。時間そのものが始まったのだ
ブラックホールの内部では時間そのものが存在しないのだ。そして時間の消失こそは宇宙の始まりで起こったことなのだ

p53
ビックバンの瞬間に向かって時間をさかのぼると宇宙はどんどん小さくなり
事実上無限に小さく無限に密度の高い1個のブラックホールだ

p69
宇宙が特異点とともに始まったということは
あまりうれしい話ではなかった

p70
宇宙の起源を理解するためにはアインシュタインの一般相対性理論に不確定性原理を組み込まなければならない

p75
M理論では空間は10次元なのだが
その状態は飲み物用のストローにちょっと似ている。ストローの表面は二次元だが、一方の次元が小さく丸まっているため、遠くから見ると一次元の直線のように見える
【さすが!めっちゃうまい譬え】

p90
推計によると恒星の五つに一つはハビタブルゾーンで軌道運動する地球型惑星を持つようだ

p99
生命がどれほど知的になってもスペースワープや高次元空間の旅ができるようになるとは思えない
【宇宙人来訪を完全否定。
だいたいにおいて、「UFOが目にもとまらぬ速度で飛んで行って消えた」!アホか?UFO中に生物が、普通に乗っていれば、加速度で押しつぶされて死ぬやないか!10Gで人は確実に死ぬ!重金属の液体につかり、脳波で操縦してれば別だが?】

p109
【量子力学について】
スーパーで砂糖を量り売りしてもらえず、1kg入りの袋を買うしかないようなものだ


p147
最も近い後世までの往復旅行に少なくとも8年かかるし
【4光年先に恒星が確認されているという意味である。現在の物理理論からして、この恒星系の岩石惑星にいくには、
①中間点まで、毎秒9.8mで加速する、そうすれば、地球に居るのと同じ重力を船内のヒトは感じる。ただし、恒星系の岩石惑星が地球より大きければ、その星の重力に合わせた加速度にすればいい
②中間点に来れば、ひっくり返して、逆に毎秒9.8mで減速する、そうすれば、地球に居るのと同じ重力である。
(宇宙船を回転させる必要などまったくないのだ!どいつもこいつも信じがたいレベルのアホばかりなのか?この程度のことすらネット上で見たことない?頭の悪さには変な自信がある私ですら思いつくことなのに?キチガイども=韓国人男性が、とてつもないレベルで、遺伝的に異常?少なくとも極めて特異であり、かつ、その結果を示す明確なデータ李朝朝鮮を訪れた西欧人の印象頭の悪い私が考えたキチガイどもの発生原因等々を私がネット上で再三再四、提供しているにもかかわらず、ほとんどの日本人が、キチガイどもの異常性に全然気づいていないのと同じかもしれない)
③必要なのは、水とエネルギー源でミニ地球環境を創出することだが、原子力潜水艦の原子炉は25年間燃料補給要らない









香川県高松市高松茶臼山古墳出土 古墳前期人骨のDNA分析

篠田謙一・神澤秀明・安達 登・角田恒雄

国立歴史民俗博物館研究報告 第 219 集 2020 年 3 月

ミトコンドリアDNAのみであり、2体の骨が分析され、うち1体についてはDNA汚染の可能性が高いとのことである。弥生系と縄文系のハプログループがそれぞれ検出されている


Ⅰ はじめに  

香川県高松市にある高松茶臼山古墳は,古墳時代前期の讃岐における最大規模の前方後円墳であ る [清家他 2020,Ⅱ− 1. 参照]。

最近では,2006 年に登場した次世代シークエンサ(NGS:Next Generation Sequencer)によって,古代 DNA 研究においてもミトコンドリアの全ゲノムや核ゲノ ムを対象とした解析が可能となっている[例えば,Rasmussen et al., 2010]。

高松茶臼山古墳
人骨のミトコンドリアゲノムの分析を行い,埋葬人骨の系統と血縁関係に ついての解析を試みた。

Ⅳ 考察  

茶臼山 3 にみられるミトコンドリア DNA ハプログループ D4m1 は,現在の日本列島人に低頻度 であるが存在しており[0.3 %,Sekiguchi et al., 2008],姉妹系統の D4m2 は北東アジアを中心に観 察される(http://www.phylotree.org)。

また,縄文時代人からはこれまでのところ D4m は検出され ていないことから,茶臼山 3 の D4m1 は弥生時代以降の渡来系集団に由来すると考えられる。

一方の茶臼山 1 は,暫定的ではあるがハプログループ M7a2 に分類された。M7a2 を含む M7a は縄文時代人の主要なハプログループのひ とつであり[Adachi et al., 2011],「縄文人的遺伝子型」とされる[Adachi et al., 2009]。現代日本人 でも本土で 7.5%,沖縄本島で 26 % の頻度で観察される[Tanaka et al., 2004]。

。このことから,茶臼 山 1 は母系系統で縄文系である可能性がある。これは,茶臼山 1 と 3 の母系の出自が大きく異なっ ている可能性を示している。ただし,茶臼山 1 のデータは信頼性に乏しいことから,今後は追加分 析を行うなどして,茶臼山 1 からもより信頼性の高い結果を得る努力を続ける必要がある。

福岡県那珂川市安徳台遺跡出土 弥生中期人骨のDNA分析

篠田謙一・神澤秀明・角田恒雄・安達 登 

国立歴史民俗博物館研究報告 第 219 集 2020 年 3 月
私ですら全員の名前を知っており、論文の読んだことがある研究者による調査研究活動報告。

100万カ所のSNP分析が正しいのであれば、従来の考え方が完全否定される驚くべき結果である

①結論としていえば、このSNP分析によれば、弥生時代中期には、現代日本人のDNAは既に形成されていたことになる。そんなバカな?。二重構造説は完全否定される?ただしサンプルは1体のみであり、たまたま全くの偶然で現代日本人と同じであったとみることもできるが、その可能性は少ない

②二重構造説では、奈良時代・平安時代初期において、東北の蝦夷との大規模混血が生じ、現代日本人のDNAが形成されたことになるが、そうであれば、この弥生時代中期の女性の人骨のDNAは現代日本人の中ではなく、もっとCHB、KOR(1人のみ)に近い点にプロットされているはずである。しかし、完全に現代日本人の中にはプロットされている。

③中国史で言う空白の4世紀を埋める一次資料は、高句麗の広開土王の碑文しかない、そしてそこには、倭人が当時の朝鮮東南部慶尚道の城に満ちていた旨明記されている。これが本当であれば、全羅道における前方後方墳の存在と合わせて、4世紀頃に橋頭堡的な存在ではなく、完全に当時の日本人が朝鮮半島に住んでいたことを意味する。新羅の半島統一までの朝鮮史は、遺伝的にはかなり異なる複数の集団を現在の慶尚道から起こった新羅が半島から追い出した過程と見て間違いない。追い出された対象は、①楽浪郡の中国人②後の女真族であるツングース系の高句麗人は確実であり、そこに倭人=当時の日本人も含まれるとみるべきかもしれない。そして、当時の倭人は、確実にこの論文の対象とした中期弥生人と遺伝的には同じであろう。

④他論文のほとんどの主成分分析図では、中国大陸のCDX、CHS、CHB等々が一直線に並び、精神面のDNA異常民族どもは、日本人同様にその直線状からははずれて表示されている。私は、従来は、その原因は二重構造説が正しく、日本人が蝦夷との交雑を経て、離れていったと思っていたが完全に逆かも知れない。

この論文分析結果が正しければ、二重構造説は完全に無関係で、精神面のDNA異常民族どもが、日本人同様にその直線状からははずれて表示されているのは、逆に、恐らくは2世紀から4世頃、倭人=当時の日本人が朝鮮半島南部に大量に進出・定住し、当時はまともであったと推定される半島南部の人々と交雑した結果であるとみなしうるのだ!その後、慶尚道から起こった新羅が半島統一したので、精神面のDNA異常民族どもが中国人と日本人の中間にプロットされる!そのように考えても何らおかしくはない。

⑤半島の連中がキチガイ状態になったのは、モンゴル軍の侵攻による人口の大幅減が原因とみて100%間違いない。モンゴル軍侵攻後の朝鮮史は完全に自律的な動きが消滅し他律的動きしか見せておらず、かつ、陶器などの文化面でも著しいと言える衰退を見せ、李朝時代に至っては海遊禄の記述やアメリカ議会図書館の画像から見ても、染料すら一般にまったく普及しておらず、人糞を肥料にせず道で大便し、草鞋の類さえ冬以外は履かず、中国正史検索サイトで検索すると火病・火症が発生し、ビショップ夫人の記録や他の外国人の記録から見て常設の小さな店舗すらなく道端の露店しかない等々、極度の衰退を全分野で見せており、DNAが原因としか考えようがない。今日でも、63もの国際的な学術賞の受賞者は、韓国にはただの一人もいない


 福岡県那珂川市にある安徳台遺跡は,弥生時代中期の大規模な集落で,1997 年〜 2003 年までの 7 年間の発掘によって,集落跡からは多くの住居跡や,豊富な副葬品をもった首長の墓と推定され る 10 基の甕棺墓が発見されている。

Ⅲ 結果と考察
1. ミトコンドリア DNA 分析  

安徳台 2,3,5,8,10 号から抽出した DNA 溶液をもとに NGS を用いたミトコンドリア DNA の解析を行った(表 2)。その結果,ハプログループを決定するために充分な量の DNA 断片が得 られたのは 5 号人骨だけだった。

ハプログループは B5b であることが判明
現代日本人での比率は 4.3 % 程度である [Tanaka et al., 2004]。これまで報告されている縄文人にはこのハプログループは存在せず,基本的 には弥生時代に大陸からもたらされたものだと判断される

2. 核のゲノム解析の結果
 ミトコンドリア DNA で結果の得られた安徳台 5 号について,更に核ゲノムの解析を進めた。

核ゲノムデータから抽出した SNP データ(1,098,136 箇所)を用いて,主成分分析を行った結果 を図 2 に示す。

2021-09-03


現代日本人はこの大陸集団から離れた部分に位置している。更に,北京の 中国人と現代日本人の中間に一人の韓国人が位置している。そして,北京の中国人と現代日本人を 結ぶ直線の反対側のはるか離れた場所に縄文人が位置している。

安徳台 5 号は,形態学的に見ても考古遺物の検討からも,典型的な渡来系弥生人と考えられてい る。従って,彼女の持つ核ゲノムは渡来人の源郷と考えられる朝鮮半島や中国と類似することが予 想された。しかし,その遺伝的な特徴は現代日本人の範疇に収まるものだった。この結果を単純に 解釈すると,渡来系弥生人もかなり在来の縄文人と混血が進んでいたということになる。ただし現 状では,弥生時代開始期における大陸側の遺伝的な特徴が明らかになっていないので,それを検証 することは出来ない。今後,朝鮮半島における集団の遺伝的な変遷が明らかになれば,渡来系弥生 人と規定される集団の成立についても,更に新たなシナリオが作られることになるだろう。

一方,安徳台 5 号の遺伝的な特徴は,日本人の形成について新たなシナリオが必要なことを示唆している。なぜなら,この集団が東進して在来の縄文集団を吸収していったとすれば,集団の内部 に更に縄文人の遺伝子を取り込むことになり,現代日本人は更に縄文人に近づくことになる。

渡来 系弥生人との混血だけで,現代日本人が形成されたとすると,東日本の縄文人が現代日本人に全く 遺伝子を残していないと仮定しない限り,渡来系弥生人は現代日本人と大陸集団の間に位置しなけ ればならない。渡来系集団が在来集団を絶滅させたという証拠はないので,この情況は弥生時代以 降も渡来が続いていたと考えないと説明できない。


しかし今回の結果は,渡来の問題は,その後の古墳時代までを視野に入れるべ きものであることを示している。弥生後期の青谷上寺地遺跡出土人骨のゲノムは,非常に多様性が 大きいことが分かっている[篠田他,2020]。この時代の在来集団と渡来集団の混合の様子は複雑で, 更に地域と時代の幅を広げて議論を進めていく必要があるだろう。

三・一独立運動と朝鮮の社会的排除
 小川原 宏幸

大原社会問題研究所雑誌 №727/2019.5

内容を読むと、キチガイどもの自律性を述べている点から見ても、そのDNAが朝鮮人であることはほぼ確実であり、この愚かな研究者は、下記を意図的に伏せているか?又は知らない。日本における朝鮮人DNAの朝鮮史研究者などその存在は100%意味はなく、有害無益かもしれない?、どこの国の人間も中国史には興味を持っても朝鮮史など見向きもしないのが常である、

①万歳=マンセーは、李朝朝鮮時代には絶対に叫ぶことができなかったこと=朝鮮国王には千歳とのみ叫ぶことができたこと。

②3・1運動時において、多くの場合、群衆は、独立万歳ではなく、単に万歳と叫びながら行進したこと(=でなければ即座に強い弾圧にあった)、及び、高宗の葬儀が決定的な誘因であったこと、また事実上は死去した高宗に対する万歳であったこと(=その意味において、庶民による暗示的な植民地統治の否定)
要するに、高宗退位=義兵と称する旧支配階層両班(自称両班が大多数)のゲリラ蜂起、高宗死去と葬儀=3・1運動と称する日本統治に対する民衆の反発と捉えて間違いない。

③このバカは、白丁のみを取り上げている。しかし、白丁は奴婢=奴隷ではない、かつ、生業と関連する被差別民に過ぎなかった。このバカは、キチガイどもの国=韓国では奴婢は李朝末期にはほとんどいなくなり、1894年には、完全に消滅したとキチガイどもに教え込んでいるので、それを信じ込み、かつ、日韓併合後は、現実にも奴婢制度は完全否定されたため、3・1運動当時には全然問題ではないと考えているようだ。実際に分析する必要があるのは、当時はまだ色濃く残っていたはずの元奴婢である。妓生を先頭に押し立てて万歳を叫びながら行進したことを言及している。

当たり前だが、妓生は李朝時代の官奴婢=性奴隷なのだよ!奴隷そのものなのだよ!いい加減にしろ!妓生を先頭に万歳と叫びながらデモ行進したのは、真っ先に、拘束されるのが先頭の妓生だからだと推定される。両班に性上納を行う性奴隷だからして、拘束されても何ら構わないという意識が当時はまだ一般民衆に根深かったと見て間違いないであろう。妓生の女性たちは、半ば無理やりに先頭に立たされたと考えて100%間違いないが、女性たちも喜んだかもしれない。元奴隷が完全開放されたのは1910年であり、デモ先頭は妓生の高年齢層の女性が、多かったであろう。そして、高齢の妓生の女性たちは、両班を含む一般民衆が、私たちを人間並みに扱ってくれた=一緒にデモ行進できた という点にむしろ喜んだ可能性が極めて高い。

著者は、知っているくせに、下記のように明らかに美化して嘘を書いている。いい加減にしろ!
「地方における妓生は,地方庁の管理下に置かれ,官吏または官の宴席で酒杯を斡旋したり歌舞 によって興を供したりする存在であった」
違う!李朝朝鮮では、漢陽の両班が、(スパイ的意味合いで)定期的に地方巡察をしていた。その際に、性接待を行うのが奴隷であった妓生=官奴婢の最大の役割である。まさに性奴隷そのものである。古田博司氏によれば、このような接客業女性に対する蔑視は今日の韓国ですら強くみられるとのことであり、1919年であれば、もっと強烈であったことは100%確実である。

元奴隷なのだから、デモの先頭で真っ先に憲兵・警察に拘束されても構わない!そのような意識が、強く残存していたことの明確な証拠とみて間違いないであろう!

「朝鮮民族を読み解く」 古田博司
p64
実に朝鮮半島居住の朝鮮民族では、接待業は賤業なのである。韓国の場合、食堂、床屋、酒場などはとりわけ卑しまれる。悲しいことに、これには序列があって、食堂のウェイトレスは床屋の女店員をさげすみ、床屋の女店員は酒場のホステスを卑しみ、酒場のホステスは自分たちは旅館の女たちとは違う、「自分たちはあのようなチムスン(動物、禽獣)」ではないと力強く主張するのである

当時の妓生は、まさにチムスンそのものであったからして先頭なのだ!


本論文の課題は,朝鮮時代に,身分制にもとづく自意識など諸次元で存在していた地域社会にお ける帰属規範が日本の植民地支配に直面して民族という規範に収斂するなかで,従来の社会的排除 にどのような変化が生じたのかを,特に挙族的にナショナリズムが高揚としたと評される三・一独 立運動を事例に考察することにある。

1 三・一独立運動の勃発

三・一独立運動が発生した背景には,まず何よりも,日本の植民地化,特 に 1910 年の韓国併合以来続いてきた過酷な武断政治への不満と独立願望という内在的要因があげ られる。加えて外在的要因となったのは,アメリカ大統領ウィルソンによって提唱された民族自決 主義への期待であった(5)。そうしたなか,三・一独立運動の起爆剤となったのは,1919 年 1 月 22 日 に死去した先帝高宗の葬儀であった。

高宗の死去をめぐっては当時毒殺説がま ことしやかにささやかれ,高宗の死に哀悼の意を表す者が続出した。

1919 年 2 月 8 日,李光洙が起草した独立宣言書が東京・神田の YMCA で発表された。ひそか に朝鮮半島に伝えられ,キリスト教,天道教を中心とした 33 人のいわゆる民族代表が署名した独 立宣言書が大量に印刷されて全国に発送された。その伝達と運動の展開には宗教団体や学生などが 大きな役割を果たした。

3 月 1 日,民族代表は,抜きがたい愚民観をもつがゆえに民衆の暴力化を おそれて早々に運動から離脱したが,その後ソウルでは学生を中心に,太極旗を掲げた独立万歳の 示威運動がパゴダ公園から市中へと広がっていった。

3 月 3,4 日の高宗の国葬を挟み,大規模な示威運動が展開されたが,,初期の運動では,都市を中心に宗教家,学生,教師といったインテリ層が運動の中心となった。それに対し,3 月中旬以降 から 4 月上旬にかけて運動が拡大していく過程では,農民,労働者,商工業者,官吏,両班等,さ まざまな階層が参加するようになり,また指導者もインテリ層に限定されなくなった

日本の弾圧に直面し,朝鮮民衆の対抗暴力は激しさを増していった(14)。鎌,棍棒,割木などの原 始的武器や投石等による示威衝突事件も数多く起き,巡査の惨殺や朝鮮人巡査補の乱打といった事 件も発生した。

2 地域社会における三・一独立運動
本論文の関心からはとりわけ,農村地域で展開された示威運動において,都市の運動 とはやや様相を異にして運動が展開された点を押さえる必要がある。

農村での示威運動の展開過程には一定の規則性が存在したが,それは定期市日と相関関係にあっ た(19)。示威運動は,定期的に市が開かれる場市での飲酒に乗じて始められ,人々の酔狂状態をとも ないながら,祝祭気分のなかで運動が展開されていった。

したがって三・一独立運動が祝祭的であればあるほど,運動が沈静化さ せられると急速に退潮していった。


3 三・一独立運動における社会的排除

 朝鮮時代において最も社会的排除の対象となったのは白丁である。身分制の最下層に位置づけら れた白丁は,農業のほかに屠殺業,獣肉販売,柳器製造等を生業としたが,衣食住等において一般 民衆から差別されていた。

1894 年の甲午改革によっていわゆる「身分解放」が行われるが,その後 も社会的差別が残り続けた。妓生を群衆の先頭に押し立てた民衆の行動論理はどのように解されるであろうか。従 来,地方における妓生は,地方庁の管理下に置かれ,官吏または官の宴席で酒杯を斡旋したり歌舞 によって興を供したりする存在であった(55)。示威運動における妓生の動員は,三・一独立運動とい う祝祭に際し,こうした宴席を郡守ではなく民衆が代執行的に開催させたものと解される。

おわりに

日本の植民地支配に反対して 1919 年に起こった三・一独立運動は,民族共同体的な意識を高揚 させ,その後の朝鮮および東アジアの反帝国主義運動を強く規定していく一大結節点となった。そ の点はいくら強調してもし過ぎることはない。

京畿道安城で妓生が動員された事例は,従来の社会的差別がも つ両義性を指し示すものであったと考えられる。
白丁は,礼法,生活上,交際上の差別を受けていたためである
こうした白丁に対する民衆の差別行動が生起した のは,三・一独立運動後,旧来的な秩序観に回帰したためと解すべきか,それとも三・一独立運動 から断続的に続くものととらえるべきものなのかは,なお考察を要する。



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