p18
弥生時代の急速な人口増加に現れている。100年間の人口上昇率が二倍を超えるのは近代の産業革命以後を除くと、前近代では弥生時代のみであることは、そのことを具体的に示している
p19
【図5の解説として】
弥生時代の200年間(BC200ーAD1)に3倍近い人口増加をもたらしたのは水田耕作がはじめられたからである
【人口データの出所は、the dictionary of world population, penguin,London】
p41
4世紀
文字資料が石上神宮の七支刀と高句麗の広開土王碑以外にほとんど皆無に近いという史料的状況が、この時代の研究を大きく阻害している
p43
魏志の弁辰伝には、弁辰で採掘される鉄を倭人が交易によって輸入していたことも伝えられている。
p46
このように宋と倭の冊封関係は朝鮮半島の鉄生産に依拠する我が百済と高句麗の対立に組み込まれ
p47
中国の冊封関係下に倭=日本の国王が組み込まれたのは、後世の足利義満の例を除くとこの五世紀の倭の五王のみである
p49
前方後円墳という型式の墳墓が営まれたのは4世紀初頭から7世紀初頭にかけてのおよそ300年間のことである
p59
三国志記の記述ではあるが、5世紀に数多くみられる倭の侵攻の記事が6世紀には姿を消してしまうことも、倭の活動縮小を示すものではないだろうか
p64
朝鮮半島では532年永らく倭の軍事拠点ともなってきた任那が続いて562年に大伽耶が新羅に併呑され、
大きかったのは新羅の台頭である
p85
日本書紀に描かれている新羅は実に不思議な国である
その出発点から悪のイメージがまとわりついていた
ほぼ新羅悪者観で一貫している
p104
朝鮮3国の動乱の中で、危機的状況から脱却するために唐の救援を求めるあまり、新羅は独自の衣冠を中国制に改め、長年使用してきた独自の年号も廃止して、
p125
縄文時代の人口については
早期には約二万人だったが、4500年前には30万人近くにまで増えた。ところが、その後は10万人以下にまで減少する。分布は東日本と西日本に大きく分かれ、最盛期には東日本に95%をこえる人口が集中するという偏った分布を示す。分布は東日本の落葉性広葉樹林と西日本の照葉樹林という基本植生とほぼ一致している
p275
平安時代の初頭に編まれた「新選姓氏録」によると平安京と五畿内の1059の氏のうち渡来系譜をもつ氏は324氏でほぼ3割を占めている
【これが九州北部よりも近畿地方が韓国人に遺伝的に近い原因と断定していい。即ち、弥生時代ではなく、古墳時代に朝鮮半島の混乱に伴い多数の半島人が日本に移り住んだことにより、現代日本の他地域とは異なる商都大阪の特性が形成されたとみていい】