モンゴル帝国の歴史
デービット・モーガン著 杉山正明 訳

長い研究史を有するフランス人によるモンゴル史。

p21
1241年から1246年と1248年から1251年の二度の空位時代のあいだ、亡くなった大カアンの未亡人が摂政となって帝国を率いた。
こうしたことはモンゴル社会では女性の地位が比較的高かったことをよく示している

p24
シャーマニズムの起源は先祖崇拝のようである。家族のテントにはオンゴトという祖先の像がおかれなだめれば保護を授けてくれると考えられていた

p27
シャーマニズムはもっぱら現生の物質上の充足にのみ関わっていたようである

p32
カラ・キタイ王国は奇妙な政治集団でほとんど何も知られていないし、わかっていない
この王朝は、西遼と称されている

p44
12世紀のモンゴリアの諸部族については、トルコーモンゴルと表現しなければならない
あらゆる場合において、どれがトルコ系でどれがモンゴル系かは判然としないからである。
いずれにしても族外婚の慣習に従って部族間の結婚は自由に行われた

p50
1240年代に「タルタル報告の作者」[ポーランド人修道士]
「チンギスカンは増大する兵力によって、他の国々を屈服させようとし、征服した軍隊の兵士を自軍に徴用するという普遍の習慣を見つけた」

p51
テムジンは1206年までにモンゴリアの諸部族を征服

p62
旅の記録「長春真人西遊記」をしたためた。それは今に伝わり、チンギス遠征直後の余波に包まれたアジアの状態が生き生きとした姿で描かれている

p75
金帝国に対するモンゴル遠征の破壊度は、後に行われた南宋征服とは比較にならないものであった
だが中国でも、もし数字が正しければ、人口の低落が見られた。宋と金の時代の1億以上から、1290年代には7千万人、モンゴルが駆逐された後の1393年には6千万人となった

【世界の誰もきずいてはいないが、金に対する破壊度を唯一上回るのが、高麗である】

p88
モンゴルの政策は戦わずして降伏した都市には危害を加えなかったが、モンゴル軍側に損害を与えた都市には無慈悲というものだった。そしてこのメッセージは、要求に応じて降伏した都市の数から判断すると瞬く間に広がっていったようである

p120
中国はモンゴルが直面せざるをえなかった数々の敵の中で最も屈強な存在であった。征服の最終段階は、中国側に大量の離脱者が出なければほとんど果たせなかったであろう

p136
自然災害は洪水と伝染病だった
1353年ー54年の大発生は、おびただしい数の住民を死に追いやったようである。
これがモンゴル時代の中国の人口が減少した要因の一つであったらしい。史料でもこの病気が正確に何であったのかはまるで分らない

p238
モンゴル帝国史の研究者は基本的にアジアの西か東かを選択し、ペルシャ語と漢語という二つの主な言語のどちらかで書かれた資料に基づいて研究を進めるか決めなければならない。そして言語学の天才でもなければ翻訳に頼らざるを得ないが、