朝鮮の悲劇

F.A マッケンジー

明らかな嘘が、1箇所あり、囚人の首枷は中国の真似である。しかし、正方形ではない為、自分で食事できる。馬鹿な連中である。中国の場合には、自分で食事出来ない正方形の首枷であり、中国人の聡明性が現れている。罪人の家族以外の者が、憐れんで食べさせてくれる場合もあり、人のありがたみが、判れば、正常な人間であれば更生するであろう。

英語原文のウェブサイト

序文
偏見のない観察者であれば誰でも、朝鮮がその古びた国家統治の腐敗と襦弱のおかげで、ついには自らの独立を喪失するに至ったということを否定することはできない。

第3章外国人の到来
p31
淡黄色の衣服を着用し、【この服は喪中であることを示すとのこと】
【李朝朝鮮では染料が一般に普及していなかったとは100%確実である。アメリカ議会図書館の画像ライブラリーで王宮関係者のみが薄い色のついた服を着ている。】

【マッケンジー氏は下記箇所で明らかに嘘を書いている。】

p175
【義兵取材のための】「私の準備は今やほぼ出来上がった。
日本当局からは何とも言ってこなかったが、何が進められているのかは知っていた。彼らは私が出発するときにとめようと思っているらしかった」
【要注意人物としてマークされていたことを自分で認めている】

p207 「この事実は、日本側の多くの戦闘報告によっても確かめられる。報告書中の韓国人死傷者には、負傷者や投降者について触れることはなく、死者があまりにも多すぎるのである」
【当たり前だが、要注意人物のマッケンジー氏が戦闘報告など見れるわけがないのである。万一、本当に見たのであれば、その内容をメモし必ず自慢げにこの本に書くはずである。

念のために英語原文を調べたが、
The fact is confirmed by the Japanese accounts of many fights, where the figures given of Korean casualties are so many killed, with no mention of wounded or prisoners
戦闘報告と意訳した箇所の英語原文は上のとおりであり、accountsを戦闘報告と上手く意訳している。日本軍がマッケンジー氏に死傷者・投降者の内訳データを提示したのであれば、マッケンジー氏はそのデータを必ずこの本に書かねばならない。ジャーナリストの最低の使命である。それ以上にそんなものを日本軍(正確には憲兵隊)が要注意人物としてマークされていたマッケンジー氏に見せるはずがない。

英文ウキペディアによれば、このfucking guy は、2年近くも韓国人どもの集団内で暮らしている、ヒトは、遺伝と環境の相互作用により、その精神的形質は極めて容易に短期間で変化する。マッケンジー氏は、環境の影響を受け、短期間でfucking guyになり果てたのだ!嘘と騙しが蔓延する社会では、このように自ら墓穴を掘る例が多い。しかし、この人物が義憤を強く感じていたであろうことはわかる。】

第15章義兵への旅立ち
【随行する使用人(召使)が、怖がってなかなか見つからずやっと一人の昔からのボーイが同行してくれることになったとのこと】

p176
ロンドンから私宛に外電が着いたのである
「タダチニシベリアへイケ」

【「伊藤博文と明治日本の朝鮮政策」という博士論文によれば、もう一人の「韓国内宮の御雇教師だった米国人ハルバート」と異なり、この人物は、韓国内宮に雇われたわけではないようだ。

英文ウキペディアによれば、デリーメールというイギリスの新聞の特派員であり、日露戦争にも日本側で従軍している。司馬さんの坂の上の雲で、当時の陸軍が外国人の従軍記者を当初はひどい扱いをしたため憤慨した記者がそれを新聞に書き、その後は待遇を改めた旨の記述があった記憶があるが、この人物かどうかは?長い小説で探すのが手間すぎる。記憶ではアメリカの記者のはずであり、こいつではない。

それにしても、この人物が韓国で2014年に建国に関する勲章を死後受賞したことに驚く。
韓国人の多くは、まさに人格障害レベルの状況と言っていい】


p177
【イギリス総領事代理の手紙を引用して】
「英韓条約第5条の規定
その規定によれば、イギリス国民が旅券なしに当該国内陸を旅行するときは逮捕及び処罰を受けることがある」
【この当時イギリスは治外法権を有していた。カナダ独立は1867年だが、この人物は大英帝国発行の旅券を所持していたようである】

p180
私の質問には決まって同じ答えが返ってきた
「日本人は、利川にいる。そこでたくさんの家が焼かれた」
急いで利川へ向かった


第16章日本の強い手

p186
忠清道地方は家柄の良い家の人たちが多いことを誇っている地方であるから

第17章
p193
私が堤川についたのはまだ暑い秋のはじめであった
【1907年9月頃と断定していい。新聞記者なら日時ぐらい書くべきだが、この本には全然書いてない】

p194
その時まで私は義兵には一人もあっていなかったし、日本軍兵士もほとんど見かけなかった。日本軍に私がはっきりと出会ったのは、その前日、忠州でのことであった

p187

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第17章 廃墟と化した堤川

p189
我々は来る日も来る日も焼き尽くされた村落、荒れ果てた街、見捨てられた否かを引き続き通り過ぎながら旅をした

p191
忠州や原州のような都市では、婦女子や子供や多少とも裕福な家の者はそのほとんどすべてが避難していた

【日本語版翻訳者は、清州ではなく、忠州でろうと推察して、忠州と訳している。京城(ソウル)と利川の距離は約60Kmである。】

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第18章義兵をたずねて
p203
私は義兵軍の組織について彼に尋ねてみた。
彼が私に語ったところから察すると、彼らは実際何ら組織されていないということが明らかであった。ばらばらの各一群のいくつかが極めてルーズなつながりで一緒になっていたのである。各地の富裕な者が資金を提供し、一人二人と散会している義兵にこっそりと渡し、彼らがそれぞれ自分の周りに見方を集めるのであった

【韓国人どもは、義兵総大将なる人物が存在したと考えており、恐らくは、高校の歴史教科書にもそのように書かれていようが、実情は上記である。いわゆる義兵に関する唯一の写真を掲載しているのだからして!】

第19章外国人の批判に対する隠ぺい工作

p213
白人の人口百名を恐らく超えてはいない一都市ソウルに、英字日刊紙二紙が発行されるという不思議な言論界の情景を持つに至っているのである
【著者によれば、①ひとつは事実上日本の宣伝用、もう一つは、英国人ジャーナリストETベッセル氏が運営する通常の新聞。②後者が先に出され、それに対抗するための宣伝用として前者が後で発刊されたたとのことであり、この記述は100%正しい。英文ウキペディアによれば、ベッセル氏は強制送還され、この野郎がそれについて書いているそうだ】

p229
【ベッセル氏発行の英字紙を引用して 始まり】

1907年9月12日(月曜日)
韓国南部での反乱は、今や、最悪の戦闘様相を示している。それはもはや文明内での戦闘ではなく、情け容赦のない戦争になってしまっている。我々は、犯罪者はじつに日本人だけであることを遠回しにほのめかしたりしたいとは決して思わない。そうではなく、むしろ反対に、韓国人暴徒たちは日本軍兵士の示した手本をそのまま映して、家を焼き人を殺しているであることを率直に承認する。

p233~235
我々は内陸地方の騒乱に関して尊敬すべき一人の通信社(外国人)から一通の長い手紙を受け取った

【手紙の内容はじまり】
一進会員は、常に彼らの祖国の敵というのがその実体である、しかもそれが相当の数を擁して全国に広がり、かつ残忍な破壊を行う。

この海賊どもはその行く先々で略奪し暴行し殺戮する。私の言ったある村では人々が深い憤りに包まれていた。それは、丘の中腹でたきぎを刈っていた少年を彼らが撃ったからであった。
村人の語ったところによると
そこから数マイル以内にはの地には義兵は一人もいなかったという。彼らは孤立した村々を略奪し、牛馬を奪い取った。

p236
当局は、不満のみなぎっている全地方を有効かつ適切に治安維持をまっとうするか、あるいは、韓国統治の能力がないことを告白するかいずれかをなすべきである
【ここで手紙の内容終わり】



p237
11907年9月26日(月曜日)
30名の義兵が日本軍部隊に包囲され、彼らが何の抵抗も行わなかったにもかかわらず、最も冷酷なやり方で彼らを射殺してしまった。
ここで言っておこう。このニュースは現地人からのものではない。ヨーロッパ人からのものである

【ベッセル氏発行の英字紙を引用して 終わり】


【p237は恐らくは事実であり、その背景にはp236があったと考えるのが妥当であろう。「韓国統治の能力がない」は、3年後の日韓併合への一番きつい嫌味である。

1910年~3・1運動までのいわゆる朝鮮への武断政治の背景には、外国人からの「韓国統治の能力がない」という視点を恐れていたのであるという点に初めて気づいた。西洋人ではなく、東洋人が同じ東洋人を植民地としてうまく統治しうるはずがないという当時の西洋人の視点は常識的であり、それを最も恐れたのだ!

軍以外はほぼ全権を有するミニ天皇とも言うべき朝鮮総督の差ではないのだ。歴史学者は何故この点に気づかない?同じ肌色をした見た目が全く同じ集団が、地理的に一番近い他の集団を植民地としてイギリスのようにうまく統治できるわけがない。(台湾であれば、距離も離れており、かつ高砂族は歴史的に異なる)

だから、植民地とせず、同化させて日本人として扱うしかない。これが、恐らくは当時の潜在的な無意識の根本的な考えであったんだ。その背景には同じ東洋人同士だから「韓国統治の能力がない」はずだ!という西洋人の視点があったんだ!この糞野郎は、間違いなくその視点で書いている。当然だが、このfucking guyは明らかに自分ではその点に気づいてはいない。

これが、日本の過去の最大の誤りだった!しかし、そのおかげで、キチガイどものパーソナリティー障害レベルと言える反日が生まれ、明らかに遺伝的におかしいキチガイどもと日本人との混血が今日少しでも減少したかもしれないので????。】

第10章新しい時代の開始
p121
私が自分の韓国人に対する個人的同情から彼らの訴える様々な苦情についての私の陳述に何か着色を加えていると思われてはいけないから、私は熱心かつ一貫的に親日的な一目撃者であるジョージケナン氏の挙げている証拠に訴えることにしよう

p123
【1905年にジョージケナン氏が朝鮮を訪問し新聞へ書いた内容の引用し】
韓国人は遺伝と教育によって、その大部分が大げさな物言いをする人間か厚顔無恥の嘘つきである。それで、日本人の非行についての彼らの陳述は、慎重な検証なしには、これを受け入れることはできない。しかし、私は私自身の調査した諸事例から、また日本人たち自身の証言から現地住民の苦情不平が相当の根拠を持っているということを確信している

【いくつかの事例を挙げている、上の赤字の部分は非常に印象的であったので大きくしておいた。後半の部分は正しく歴史家や学者は、「日本で食い詰めた者が朝鮮で一旗揚げようと」云々式の記述をよく行う。正しい】

p126
日本人移民は韓国法廷の司法権に従属せず、
【たった6人の日本領事裁判所において審査されている旨。治外法権を有していたことを知った】

第12章
伊藤統監の統治

p143
統監府によって改善されたことの一つに日本人移民の厳重な取り締まりがある。極悪非道な日本人犯罪者どもを逮捕して本国に強制送還したのである。
しかしながら日本の狙いとするところが、韓国の全面的併合とその民族性の完全抹殺以外の何ものでもないことが次第にはっきりしてきた、当時韓国にいた最も有力な日本人の一人はこの事実を率直に私に打ち明けた。彼は私にこう語った。「韓国は日本に併合されるでしょう。彼ら韓国人は我々の言葉を話し、我々と同じように生活し、我々の完全な一部となるでしょう。
植民地支配には二つの方があるだけです。一つはその地の民衆を外国人として統治するもので、これはあなたたちがイギリス人がインドで行っている方そのものです。
インドはきっとあなたたちの支配を脱するに違いない。第二の道は民衆を同化してしまうことです。これが我々日本の取ろうとしている道です」

日本人は韓国人は臆病で虚弱で卑怯な自分たちとは全く違ったレベルのものと思い込んでおり韓国人を軽蔑しそれにふさわしい取り扱いをするのである

【この部分は結果として正しい。
故マッケンジー氏へ。集団遺伝学が発達した今日、あなたが書いた内容は完全に否定され、
朝鮮半島の人々の遺伝的な特異性が完全に明確になってしまいました。
少なくともデータが示す結果から見れば、「全く違ったレベル」です
上のページのデータほど朝鮮半島の人々の邪悪性を明確に示すデータはありませんよ!何故なら、他者から盗むは、物だけではなく技術も含まれ、②のデータとサムスンを見れば、その邪悪性は明確になるから。

そして、あなたは義兵以外の一般論の中でも、明らかに変な記述と写真をのせている】

p119
韓国の裁判所や監獄の野蛮性はまだ停止されないで残存している

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【上の写真の撮影年月日ぐらいを書いとけ!中国史マニアの私の知る限りでは、上の写真のような罪人への木の首輪は中国の風習だ。ただし、中国では清朝時代には正方形の首輪を使用していた。

1907(明治 40)年 7 月 24 日の第 3 次日韓協約以降は、内政面でも日本がほぼ主導権を握ったが、この書籍は1908年出版だ。「停止」が間に合うわけがないだろ!李朝朝鮮時代の残存であることは、撮影年月日の明確なアメリカ議会図書館の画像ライブラリーからみて確実だ。上の写真のようなバカなまねをやめさせたのは、日韓併合後の日本だ。いい加減にしろ!

高宗退位に伴う義兵と称する抗日ゲリラ大規模蜂起と単なる強盗団=暴徒が入り混じった状態であったことも確実に推測していたはずだ!それを自分の見解として書かず、ベッセルという他者の記事を引用する形で誤魔化して、ほのめかしている。

英国海軍を模範として創設された海軍の最後の海軍大将井上成美は、紳士面をしたイギリス人の腹黒さを、海軍次官を退いた後、その部下によく語っていたそうである。井上成美の見方が正しい。即ち、この本は、「イギリス人の腹黒さ」の象徴である。ただし、著者マッケンジーはスコットランド出身であるが。】